3話 赤い月の夜
「いやー、今日は大量でよかった」
帰り道の最中、石井が額の汗を拭いながら言った。夜ではあるが、特に寒いわけではない。気温は常に一定で、少なくとも、基地周辺の気温が変化したことはない。
今は、こんな世界になってしまったのだ。突如として現れた魔族たちは、手当たり次第に町を破壊し始めた。
そのときの光景を思い出すだけで戦慄する。六花は明るく振る舞っているものの、六花の両親は彼女の目の前で殺されたのだ。
地下基地に避難した当初は、毎日のように泣いていた。いつ自分が殺されるかもわからない状況で、明るく振る舞うことが出来るわけがない。毎日悪夢にうなされ、軽いノイローゼになっていたくらいだ。
そんなときにいつも慰めてくれたのが石井だった。彼は毎日、六花に対して「大丈夫だ」と囁いた。自分たちが守るから、安心してくれ。そんな石井の努力のおかげで、六花はかつての明るさを取り戻すことが出来たのだ。
今日は何もなく帰れるだろう。あと数百メートルほどで基地に着くという辺りで、六花は安堵する。まだ視認は出来ないものの、もうじき地下基地に到着するだろう。
初仕事で手に入れた無線機は、修理されるのを今か今かと待ちわびている。もし、今すぐには直せなくとも、いつか使えるときが来るかもしれない。生存への確実な一歩だった。
しかし、崩壊した世界には、そんな淡い希望すら許されなかった。
背中に強烈な寒気が走った。違和感と共に、周囲の気温が急激に下がったことに気付く。
「六花ちゃん、絶対に俺から離れたら駄目だ!」
変化を察したのか、石井が声を張り上げる。彼は即座に不格好な剣を取り出し、体の震えを無理矢理に押さえつけながら構えた。
六花には、何が起きたのか即座に理解することは出来なかった。月は鮮血のような赤に染まり、夜空の黒さはより一層濃くなった。背後から痛いほど感じる殺気によって、ようやく何が起きたかを把握出来た。
「魔族……?」
震える声で呟く。回りの大人たちは、六花を守るようにして武器を構えている。しかし、その表情には余裕が無かった。すでに、勝敗は見えているのだから。彼らは諦めとは違う、しかし、自らの死を悟っているかのような表情をしていた。
魔族は一人だけだ。人の形をしており、一見すると人間のようにも見える。肌の色が青かったりと違いはあるが、そこまで大きな差はないだろう。獲物を前にしているためか、笑みを浮かべている。
「皆さん、に、逃げないと」
六花は震える声で、どうにか言葉を発する。基地はすぐそこにあるのだから、走ればなんとかなるだろう。そう思っていた六花だが、現実はそう簡単ではなかった。
「駄目だ。今避難所に戻れば、中の皆を巻き込んでしまう」
石井が言う通り、中に立てこもったとして何分と持たないだろう。今避難所に逃げ込めば、仲間の居場所を教えるも同然である。
まだ距離はあるものの、魔族はゆっくりと距離を詰めてきている。見ているだけでも腰を抜かしてしまいそうだ。
「六花ちゃん。俺たちが時間を稼ぐから、隙を見て逃げてくれ」
「そんな、私だけ逃げるだなんて……」
要するに、石井は自ら囮となって六花を逃がそうとしているのだ。当然、六花は彼らを置いて逃げることなど出来なかった。
「やっぱり無理ですっ! 私だけ逃げるだなんて出来ませんっ!」
「駄目だ!」
石井が怒鳴る。直後、彼はいつもの優しげな顔に戻った。
「六花ちゃん。お願いだ、逃げてくれ。六花ちゃんの気持ちもわかるが、六花ちゃんは、皆に食料を届けなきゃいけないんだ。わかるね?」
六花の頭を優しく撫でながら、石井はそう諭した。六花はその優しさに涙を流しつつも、力強い返事をした。
「石井さん、私、皆に食料を届けますっ!」
「頼んだよ!」
石井は六花の肩を軽く叩くと、六花に背を向けて魔族の方へ向き直った。皆に目配せをしてから、剣を高々と掲げる。
そして、声を張り上げながら、捨て身の突撃を試みた。
「はあああああ!」
出来る限り、魔族の注意がこちらに向くように。石井は六花を逃がすために、自らの命を捧げる。
大人たちが決死の捨て身をし、六花が逃げる隙を作った。これを無駄にしてはいけないと、六花は一気に走り出した。
直後、幾つかの炸裂音が響き、大人たちの断末魔が飛び交う。痛みに苦しむ石井の声が聞こえ、六花は涙を流した。視界が涙で塞がれ、うまく見えない。悲しみをこらえながら、六花は走り続ける。
万一、敵に逃げるところを見られてしまった場合、基地の場所も見つかってしまう。そのため、六花は一度違う方向へ走り、身を隠した。
辺りが静寂に包まれる。口を両手で押さえ、必死に呼吸をこらえる。音を出さないように、呼吸を小さく行った。
(お願いだから、早くいなくなって……)
体を震わせながら、六花は繰り返し祈る。そんな願いも空しく、だんだんと足音が聞こえてきた。革靴だろうか、コツコツと音がよく響く。大人たちは皆が運動靴を履いていたため、この足音の主は魔族だろうか。
足音は徐々に近づいてきており、こちらの場所を把握しているかのように、真っ直ぐ歩いてきている。身を隠しているため、正確にはわからない。そのせいか、六花は最悪の状況のように思い込んでしまう。
このままでは捕まってしまう。そんな予感がして、六花は恐怖のあまり走り出してしまう。それが魔族に居場所を知られてしまうことに繋がってしまうのだが、今の六花には、そんな些細なことに気が付くほどの余裕は無かった。
六花の姿を視認して、魔族は走り出した。六花は必死に走るが、生身の人間が魔族相手に逃げ切ることは叶わない。
幾つかの炸裂音。同時に、六花の周囲にある地面が吹き飛んだ。
「あっ!」
爆風によって、六花は木の葉のように簡単に吹き飛ばされた。倒れ込むように地面に叩き付けられる。風化したアスファルトは、六花の体に大きな衝撃を与えた。
体中が痛む。立ち上がろうにも痛みが邪魔をし、思うように体が動かない。すぐそこに迫る死に、六花は戦慄いた。
背中に背負うリュックには、皆が生き残るための食料が入っている。両手で抱えた無線機は、皆が生き残るための希望だ。自分が死んでしまっては、基地にいる皆が困ってしまう。自分が死んでしまっては、命を投げ出してまで助けてくれた石井たちが報われない。
しかし、魔族を相手にして、六花が出来ることなど何一つ無かった。自身の無力さを思い知らされ、六花は再び涙を流す。
「皆、ごめんなさい……」
自分は役に立てなかった。そんな悲しみからか、六花の体は動かなくなっていた。もはや、この絶望的状況において、抵抗するという選択肢は残されていなかった。
眼前に迫る死を、六花は受け入れるしかなかった。視界には、今にも止めを刺そうと、魔族が手を掲げている。その手には怪しい光が宿る。
それが飛来し、自分は跡形もなく消え去る。そう悟った六花は、恐怖のあまり、思わず目を瞑った。
数秒だろうか。そのたった数秒が、六花には異様に長く感じられた。幾つもの激しい炸裂音が響く。しかし、なぜだろう。自分は生きていた。
なぜ、私は生きている? 六花の疑問は、目蓋を持ち上げた瞬間に解決した。
「お前、怪我は無いか?」
目の前には、一人の男がいた。第一印象は“怖い”だった。端正な顔立ちではあるものの、やや鋭くつり上がった目のせいか、人相は若干だが悪く見える。髪の長さは短めで、所々が跳ねている。寝癖のようなだらしない髪型だ。黒いロングコートを前を開けて着ており、内側にはTシャツを着ている。身長は180くらいといったところだろうか、年齢は二十歳ぐらいに見える。
腰を抜かして立ち上がれずにいる六花を彼は見下ろす。何の感情も無いのかのように、表情一つ変えずに六花を見ている。
「だ、大丈夫ですっ!」
「そうか」
六花の返事を聞くと、彼は後ろを振り返った。魔族はすでに戦闘体勢に入っており、今にも攻撃してきそうだ。
彼が戦おうとしていることに気づいた六花は、石井たちのことを思いだす。4人がかりで勝てなかったのだから、一人では尚更だ。六花は慌てて彼を止める。
「逃げてください! 戦うなんて無謀です!」
必死に制止するが、男はただ「大丈夫だ」とだけ言い、魔族の方を見据える。いつの間にか、その手には二丁の銃が握られていた。
銃の知識はないために名前こそわからないが、黒いハンドガンが2つ。突き出すように構えられ、すでに男も戦闘体勢に入っていた。
男はゆっくりと息を吸い込み、地面に大きく踏み込んだ。
「はっ!」
超人的な脚力で、男は一気に間合いを詰める。魔族が放つ光弾を、自身の銃から放たれる閃光で相殺していた。
男の首筋に、線が入ったかのように赤い光が浮かび上がっていた。赤い光の線は両頬まで伸びている。赤い光の線は、何か印のように刻まれており、彼の体中に伸びていた。
彼が引き金を引く度に、銃口からは赤い閃光が飛び出す。さながら魔法を使っているような、武器とは思えないくらい綺麗な攻撃だった。
魔族が光弾を放つ度に、男は身を翻し、鮮やかに躱してみせる。回避しきれないと判断した光弾は、両手に握られた銃で正確に撃ち落としていく。映画で見るようなスタントでも、こんな動きは見たことがなかった。
自身のリーチに入るように一気に間合いを詰め、男は魔族に足払いをかける。地面に魔族が転がされると同時に、男は数発、赤い閃光を撃ち込んだ。魔族は息絶えたようで、ぴくりとも動かない。
「すごい……」
六花は驚いた。まさか、一人で魔族を、なおかつこんなに鮮やかに倒すことが出来るとは。一体、彼は何者なのだろうか? そんな疑問が浮かぶが、それは最優先事項では無いだろう。
六花は男に向き直ると、感謝の意を伝えた。
「あ、あの……助けていただいて、ありがとうございますっ!」
「気にしなくていい」
そう返事をすると、男は体を反転させて去ろうとする。
「待ってくださいっ!」
六花が反射的にそう言うと、男は振り返る。六花の次の言葉を待つように、じっと見つめていた。
「えっと、その……」
言葉に詰まる。本人は意識してはいないのだろうが、その表情で見つめられては会話がしにくい。せめて、少しでも笑ってくれればいいのだが、彼には無表情でこちらを見つめ続ける。
「近くに避難所があるので、そこで改めてお礼をさせてくださいっ!」
「避難所か……」
男は考えるそぶりを見せる。少し間を置いてから、返答をした。
「ああ、案内してくれ」
「はいっ!」
良かった。六花はそう思った。命の恩人なのだから、出来る限りの礼をしなくては。自分を助けるために命懸けで魔族と戦ってくれたのだ、見返りは大きくなくてはならない。
そこで、一つ大切なことを思い出す。
「あの、すいません。その前に、一つだけ手伝っていただけませんか?」
六花は近くを指差して目的を告げる。内容は単純なもので、死んでしまった石井たちを埋めてあげたい、というものだった。
「良い心がけだ」
男は頷き、了承の意を見せる。その時に、若干だが男の表情が変わったのは、考えすぎだろうか。
死体を前にして、六花は今日何度目かの涙を流す。ついさっきまでは、一緒に会話をしていたはずだった。なのに、今では変わり果てた姿になっている。
俯いて嗚咽する六花を横目に、男は死体を調べ始める。何をしているのだろうか?
男は何かを確信したように頷くと、六花の方を見る。そして、こう告げた。
「2人だけだが、まだ息がある」
六花は驚き、顔を持ち上げた。血だらけではあるものの、石井と桜井の2人の胸部が上下しているのがわかる。他の2人は目も当てられないほど、滅茶苦茶になってしまっている。
「急ぐぞ。まだ間に合う」
男に言われ、六花は慌てて石井の体を立たせ、肩を支える。男は反対側から石井を支えつつ、桜井を肩に担いだ。
どうか、2人の命を救ってください。六花は、何度も何度も心の中で繰り返した。
「これでいいだろう」
石井と桜井の手当てを終えて、男が六花のもとにやって来た。その表情には、多少の疲労も窺えない。
戦いも強く、手当てまで出来る。年の差はそこまで大きくないというのに、これほどまでに才能の差が出るものなのだろうか? 六花は自身の頼りなさに不満を抱きつつ、男に礼を述べる。
「あの、本当にありがとうございましたっ!」
ぺこりという擬音が聞こえてきそうな動作で、六花が礼をする。男は「ああ」とだけ返答する。
「私、六花っていいます。新川六花です」
「鳴神零だ」
「えっと……零さん、ですね」
呼び方を決めて、六花はひと安心する。これで会話もしやすくなるだろう。
「零さん、よろしくお願いしますっ!」
「ああ」
返ってきたのは素っ気ない返事だったが、少しだけ優しげな声に聞こえたのは、六花の考えすぎだろうか?
行く所も無いため、零はしばらくここに留まることになった。基地の皆も、六花の命の恩人ということで、零が留まることを快く受諾してくれた。
零の口元が僅かに動く。声は聞こえなかったものの、「よろしくな、六花」と言っていたように六花には見えた。