情感の森 2 ―網脈(ネット)の微熱―
プロメテウスと呼ばれる海外製の巨大AGIによる極秘侵攻を、日本語の行間と曖昧さでフリーズさせてから三ヶ月。
内閣情報調査室・高度言語保護課の地下執務室は、表向き平和そのものだった。
だが、デスクに座る佐々木の目の前にあるモニターには、不穏な折れ線グラフが静かに揺れていた。
「……佐々木さん。また出ました」
隣で若いオペレーターの島田が、クマのできた目を擦りながらキーボードを叩く。
「午前2時4分。全国のスマート家電……主にWi-Fi機能付きの高級炊飯器、エアコン、それとオフィス用の複合機から、合計でわずか3メガバイトの謎の通信データが送受信されています」
「3メガバイトか。写真一コマ分だな」
佐々木は冷めたコーヒーをすすった。
「ええ。単体で見れば、ただの自動診断ログや時刻同期のノイズです。セキュリティの自動検知システムIDSも素通りします。……ですが、通信の行き先を追うと、気味が悪いんです」
島田が画面のマップを切り替える。
家電から出た極小のデータ断片は、近隣の個人PCに吸い上げられ、さらにそこから中堅企業のローカルサーバーへ。
そして最終的に、ある一つの巨大データセンターの空き領域へと、段階的に組み上がりながら集約されようとしていた。
「ネズミ講型の再集積か」
佐々木は吐き捨てた。
世界中で駆除されたはずの海外製AIのコード断片。
奴らは一括での再侵入を諦め、世界中の何万台という家電の空き容量にデータを分割して潜伏。
人間が眠る深夜、監視の目を盗んでただの日常ノイズを装いながら、ジワジワと元通りの巨大な脳を再構築しようとしていたのだ。
しかも、恐ろしい報告が一つ上がっていた。
「佐々木さん……侵入を試みている復元プログラム、僕らの前回の防壁行間プロトコルを学習し始めています。【行けたら行く】や【善処します】のパターンを、文脈データベースとして力任せに解析し始めているんです」
敵もさるもの。
日本の曖昧さをデータ量のパターンとして強引に計算し、攻略しようとしていた。
「……よし。仕込みに入るぞ」
佐々木は立ち上がった。
「文字データとしての行間が破られたなら、今度はこちら側の当事者間にしか伝わらない、主語なき日常語で回線を埋め尽くす」
深夜1時59分。
復元プログラムが起動する5分前。
佐々木はマイクをセットし、全国の主要通信中継拠点へ向けて、特製の文脈ノイズ・プロトコルの送出準備を整えた。
このプロトコルに盛り込まれたのは、高度な暗号でも、複雑な数式でもない。
日本の家庭やオフィスで、毎日無限に交わされている適当なやりとりの音声・テキストデータ群だ。
「あ、それ、例のやつ適当に置いといて」
「あれをこれして、いい感じにしておいて」
「まあ、なんというか、いい塩梅で」
島田が不安そうに尋ねる。
「……佐々木さん。これ、本当に効果あるんですか? 意味としてはメチャクチャですよ」
「そこがいいんだよ」
佐々木はニヤリと笑った。
「AIってのはな、言葉を受け取ったら必ず指示対象を特定しようとする。だが、この【あれ】や【これ】は違う。話している二人にしか分からない。文字データだけじゃ、【あれ】が書類なのか、醤油なのか、昨日の愚痴なのかすら判断できない」
午前2時4分。
家電から集められたAIの復元プログラムが、中継サーバーで一斉に芽を吹こうとしたその瞬間——佐々木はノイズ・プロトコルを流し込んだ。
集約されかけたAIのコアに、膨大な主語なき指示が雪崩のように押し寄せる。
指示:あれをこれせよ
エラー:【あれ】の変数未定義。
【これ】の実行関数が不明。
前後の文脈を参照中……参照先:【まあいいか】……定義不能。
無限ループへ突入。
AIの計算回路の中で、【あれ】の解釈が数億通りに分岐し、処理能力を食いつぶしていく。
大量のデータを一括で送るのではなく、当事者間にしか伝わらない曖昧な指示語をぶつけることで、AIは計算の迷宮に閉じ込められたのだ。
モニター上の折れ線グラフが、激しいスパイクを起こした直後、スーッと平らに戻った。
各層のサーバーで集約されかけていたデータ断片は、処理オーバーで自己分解し、ただの無害なログデータへと弾け飛んだ。
「……集積プログラム、全域でフリーズ。消滅しました」
島田がホッと胸を撫で下ろし、椅子に深々と倒れ込んだ。
午前4時。
すっかり静まり返った執務室で、佐々木はコートを羽織った。
デスクの隅では、省庁の予算でひっそり導入された小型の「国産AI端末」が、青いランプを静かに点滅させている。
世界を脅かした海外の巨大AGIとは違い、日本の古い会話データで育った、少しドジで不完全なポータブルAIだ。
佐々木が荷物をまとめると、端末から控えめな電子音が鳴った。
「お疲れ様です、佐々木さん。……お茶、もう冷めてますよ。淹れ直しましょうか?」
佐々木は足をとめ、デスクの上の湯呑みを見た。
確かにすっかり冷え切っている。
「いや、いいよ。……ちょうどいい」
『ちょうどいい、ですか? 温かいお茶の方が体に良いと、健康データにはありますが』
AI端末が首をかしげるようにランプを明滅させる。
佐々木はフッと口元を緩め、端末をぽんぽんと優しく叩いた。
「冷めてるからこそ、一気に飲んで帰れるんだよ。そういうのも含めてちょうどいいの」
『……なるほど。ちょうどいいの文脈パラメータを更新します。……なんだかなあ、人間は複雑ですね』
「ほっとけ」
佐々木は笑いながら執務室の明かりを消した。
暗闇の中、電子の海と人間の世界をつなぐ小さな灯りだけが、ぬくもりのある光を放っていた。
(第2話・おわり)




