冗談なら許されると思ったか?
「これは驚いた。辺境の令嬢は、ワインの飲み方も知らないらしい」
夜会の広間に、ジェラルド・アッシェンバッハ侯爵令息の声がよく通った。
彼のグラスは、たった今、私の胸元でうっかり傾いたばかりだった。純白のドレスに、血のような染みが広がっていく。
くすくす、と着飾った中央貴族たちの含み笑いが漏れた。
「……申し訳、ございません」
私は、頭を下げた。悪いのは、私ではないことを知っていながら、それでも下げた。ここで顔を上げれば、話がもっと長くなることを、もう知っていたからだ。
「そう睨むな、セレスティア」
ジェラルドは私の顎を指で持ち上げ、人形をあやすように笑った。
「冗談だよ。本気にするなって」
——冗談。
そう。いつだって、冗談だった。
◇
私、セレスティア・ヴァルガは王国の西の果て——魔物の森と隣国リューベルに挟まれた、ヴァルガ辺境伯領のたった一人の娘だ。
私とジェラルドの婚約は、荒れた辺境を中央に繋ぎとめるための、政略なのだと聞かされていた。そのため、式までの半年、私は花嫁修業という名目で、王都にあるアッシェンバッハ侯爵邸に置かれていた。
辺境は、中央から見れば、ただのド田舎だ。泥と血と魔物の匂いのする土地は、お世辞にも綺麗とは言い難い。そこの娘が、中央貴族の中でも名門のアッシェンバッハに嫁ぐ、となれば、ジェラルドもどうしても我慢ならなかったらしい。
だから悪質で、隠そうともしない虐めは、私が屋敷の敷居をまたいだ、その初日から始まった。
「しかし、ジェラルド様も難儀ですな。よりにもよって、辺境の女なぞと」
「上の決めた政略だ。仕方あるまい」
私の歓迎の晩餐と称した席で、取り巻きの令息が扇の陰から囁くと、ジェラルドは退屈そうにグラスを回した。
「まあ、案ずるな。あんな泥臭い土地の娘だ。よく躾けてやれば、犬くらいにはなる」
私が聞いているのにも関わらず、周りからは、どっ、と笑いが起きる。
「それに、知っているか。辺境では、令嬢自らが剣を握るそうだぞ」
「まさか! なんと、はしたない」
「飛んだ野蛮だろう? 伯爵夫人が厨房に立つようなものだ。身分というものを知らん。——なあ、セレスティア嬢?」
部屋の隅で立たされていた初対面の私に、彼は振り返った。
「そうだ。お前の母親も、そうやって剣を振り回して、野垂れ死んだんだったな?」
「……」
「魔物討伐だったか知らんが、女が剣振って、死んで、遺体も戻らず、ってわかりきったことだったろ。——まったく傑作だな」
再び、貴族の下品な笑いが広がる。
母は、辺境の逃げ遅れた村人を守り、最後の一人まで退かず、壁となって死んだ。ヴァルガの騎士の誇りを持って。そのおかげで、中央まで魔物が入らなかったというのに。
その死を、酒のつまみにして笑える人間が、この世にはいる。
「……母を、侮辱なさらないでください」
そんな母の勇姿を知っておきながら、私は声を上げざるを得なかった。
ジェラルドはそれに目を丸くし、それから、心底おかしそうに肩を揺らした。
「おお、怖い怖い。お前ら! 人間の皮を被った化物が、牙を剥いたぞ」
そして、彼は、私の胸元に手を伸ばした。母の形見の、小さな銀のブローチへ。
「こんなみすぼらしいもの、よく大事にできるな? これが、そんなに大事か?」
「——お、お返しください」
「ちっ、ほらよ」
彼は、それを指で弾き、わざと床に落とした。それを拾った私は、銀のブローチが握りつぶされて、原型をとどめていないのを手にとって感じた。
「あっ……」
気づけば、私の目には涙が流れていた。だが、ジェラルドは、それをみて、口元を押さえて笑った。
「これから互いにやってくんだから、こんなんで泣かれると困るぞ。これからもっといじめてやる、っていうのに」
「……」
「あぁー、悪かった悪かったって。冗談だよ、冗談。本気にすんなよ。だから早く拾え、イヌ」
泣き止まない私にジェラルドがかけたのは、慰めにもならない、ぶっきらぼうな言葉だった。
私は動かなかった。掌の中で歪んだ銀は、もう二度と元の形には戻らない。
政略で結ばれた婚約。片方の家格がもう片方を上回っていれば、何が起こるかなど、初めから見えていたはずだった。
それでも、嫁ぐ相手が少しでも情のある人であれば、と……きっとそんな浅はかな考えは、はなから間違っていたのだろう。
◇
『これからもっといじめてやる』というジェラルドの言葉通り、彼からの嫌がらせは、それからの日常の一部となった。
食卓で、私の皿にだけ、料理が運ばれない。そんなことはザラにあった。
それが三日続いたある日、見かねた侍女がこっそり厨房のパンを分けてくれたが、それが露見した翌朝、その娘は、身体中に青い痣をこしらえて、私に「さようなら」とだけ告げて、去っていった。
それも、冗談で片づけられた。だが、何が、どう冗談なのかは、いつものように誰も教えてくれなかった。
——同じ週、辺境の父から私宛に手紙が届いた。
「ほう、辺境伯じきじきの文か。どれ」
しかし、ジェラルドは、それを従僕の手から奪い取って、私の前で勝手に封を開けた。
「お、お返しください、それは——」
「『無事息災であるか? 何かあれば、すぐに報せよ。騎士団は、いつでも動くぞ』……ぷははっ」
こらえきれない、とばかりに吹き出した。
「騎士団? あの泥まみれの農民どもが? いつでも動く、か。 そりゃあ頼もしいな、セレスティア。鍬でも担いでうちの畑でもたぐわしてくれるのか?」
「ふっ、ジェラルドさま、冗談がお上手で!」
卓を囲む取り巻きたちが、待っていたように追従の笑いを上げる。ジェラルドはひとしきり笑うと、ふいに真顔へ戻り、手紙をくしゃくしゃに握りつぶして、私の足元へ投げ捨てた。
「精々、報せるといい。田舎の騎士ごっこが、何人来るか見ものだ。ってく、飛んだ冗談だ。笑わせんな」
私は、一礼をしたのち、屈んで手紙を拾い、皺を伸ばした。
◇
その頃、父は、辺境で着々と動いていた。
数百年ものあいだ剣を交え続けてきた隣国リューベルと、やっとの想いで、和平を結んだのだ。条約は、父の代で、ついに調印へこぎつけようとしていた。
あとは、両国が肩を並べたことを内外へ知らしめる『場』が必要だったが、その場こそが、私の婚礼だった。
辺境の娘が中央の名家へ嫁ぐその日、和平の証としてリューベル王家が正式に来国し、婚礼の席に列する——辺境と中央、さらには長年争った両国の和解を、ひとつの祝宴で示す。そういう筋書きになっていた。
その下準備の晩餐で、リューベルの使節を迎えたときのことだ。
「此度は、リューベルと貴国の和平条約の証として、お二人の婚礼に列する栄に与りました。両家の寛大なるご配慮に、心より感謝申し上げます」
灰色の礼服をまとったリューベルの使節の長が、言葉を選びながら、美しい所作で頭を垂れた。
だがジェラルドは、その丁重な挨拶に一言も返さず、鼻で笑っただけだった。そして酒杯を掲げ、言い放つ。
「しかし、リューベルの田舎者どもは、よく我が国へ頭を下げに来たものだ。一国が一貴族の俺に首を垂れるとは、落ちぶれた国よ」
「——ジェラルド様!」
これがどれほどの席なのか、この場にいる誰もが知っている。剣ではなく交易で国境を鎮めるという、父が生涯を賭した悲願の、その最初の一歩だ。ここだけは、たとえジェラルドであろうと、汚させはしない。
そんな一心で声を上げたのだが、ジェラルドは私に肩をぶつけると、私はよろめき、床へ手をついた。
「ったく、よく鳴くイヌだ。まあいい……リューベルのものよ、聞けば、貴国は馬しか自慢がないそうだな。なに、我が国が本気を出せば、三日で灰にできる程度の国だ。安心して媚びるといい」
「……そ、そうですか、ジェラルド侯爵令息。それは心強い。心より媚びて差し上げましょうぞ」
使節の長は柔らかにそう応じたが、その声の底には、腹が震えるほどの怒りが押し殺されていたに違いない。
私はすぐさま立ち上がり、床に額がつくほど深く頭を垂れた。
「侯爵令息の、戯れ言でございます。どうか——どうか、この身に免じて、お許しを」
やがて使節の長は、ふっと表情をやわらげ、私の肩にそっと手を置いた。
「お顔をお上げください、ヴァルガの姫よ。あなたのお父上の志は、我らとて承知しております」
「……はい」
「貴女の婚約者が、冗談を語ろうと、その想いは簡単に変わりはしませぬ」
そして、去り際、使節の長は、すれ違いざま、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「姫。困ったことがあれば、西へ文を。……灰の獅子は、貴女のお父上から受けた恩を、決して忘れませぬ」
きっとジェラルドから受けた突き飛ばしで、我が婚約の力関係を了見したのだろう。そんな言葉をかけられ、私は、さらに頭を下げる他なかった。
宴のあと、ジェラルドは上機嫌で私の肩を叩いた。
「よくやったな。お前は、頭を下げるのだけは、本当に上手いな。さすがは俺のイヌだ」
これまでの嫌がらせなら、聞き流せた。悪辣ではあっても、心の奥にまでは届かなかった。
けれど、今日だけは違った。父が生涯を懸けたこの一日を、こんな戯れで汚されて、胸の奥に消えない澱のようなものが残っていた。
その澱のせいだろうか。気づけば私は、ジェラルドを睨みつけていた。
「おいおい、そう怖い顔をするな。冗談だよ、冗談。本気にするなって」
だが結局、彼はいつものように、そう言って笑い、すべてをなかったことにした。
◇
婚礼の十日前。
ジェラルドは、大勢の客を集めた広間の中央に、私を晒し者のように立たせた。
「諸君に伝えておこう。この結婚は、ただの政略だ。辺境の田舎女を飼うのは癪だが、まあ、犬でも一匹置くと思えばいい」
「そうですね、旦那さま。婚礼が終わり次第、領地のどこかに館でも用意して、そこに住まわせましょう」
「——必要ない。式が済めば、こいつは犬小屋に押し込める。子だけ作らせて、あとは飼い殺しだ」
彼は、私を見て、心底愉快そうに微笑んだ。
「どうした、セレスティア。泣いてもいいんだぞ。——ああ、言っておくが」
グラスの縁越しに、唇が動く。
「冗談だよ。本気にするなって」
私は、初めて、彼に微笑み返した。
「——ええ、わかっていますよ」
その夜。自室で硯に向かう私の背に、控えめな声がかかった。辺境から付いてきた、従僕のマイロだ。
「お嬢様……もう、よろしいのでは」
抑えても、声が震えていた。
「あんな男の言葉、一つとして本気にする値打ちもないです。今すぐ辺境へ報せを。黒狼の兄貴たちなら、明日にでも飛んできますから!」
「——マイロ!」
私は、筆を止めずに言った。
「本気になんて、ただの一度もしていないわ。あの辺境出身の私がこんなことで屈するわけがないじゃない」
「なら——!」
「手紙を送って、二通。宛先は、わかるわね?」
私は顔を上げ、微笑んだ。
マイロが、息を呑んだ。やがて、深く、頭を垂れる。
「……最速の馬で、送り届けます」
私は、書き上げた二通を差し出した。
一通は西にいる父の黒狼騎士団へ。
もう一通は、国境の向こうにおられる灰の獅子の御方へ。
したためたのは、どちらも、たった一言だった。
「婚礼の日に。どうか、娘の顔を、見に来てください」
◇
婚礼の朝のこと——。
「——お、お、お知らせしまぁぁぁぁすぅぅ!!!」
門番の悲鳴で、屋敷が目を覚ました。
アッシェンバッハ侯爵邸を囲んで、地平が人で埋まっていた。
一つは、黒い甲冑の軍列。頭上に翻るのは、狼の旗。
もう一つは、灰色の獅子の旗を掲げた、騎兵の群れ。
それだけだ。たった、二つの軍。
けれど——その二つを見た瞬間、廊下に出てきたジェラルドの父、アッシェンバッハ侯爵の顔から、血の気が、音を立てて引いた。
「ば、馬鹿な……あの旗は……」
侯爵の声が、震えた。
「狼の旗——ヴァルガの『黒狼騎士団』。数百年のあいだ、ただの一度も、魔物に陣地を破らせたことのない……この国、随一の騎士たちだ」
彼の膝が、乙女のようによろめいた。
「灰の獅子は——隣国リューベルの『灰獅子騎兵』。まともにやり合って生き延びた軍が、大陸に一つとして無い……あの、化け物どもだぞ……?」
——ついこの前まで、拮抗にやり合っていたこの二つの勢力が力を合わせて、一体、うちの目の前でなにを……?
侯爵は身を翻し、ジェラルドの寝室へ転がり込むと、寝ぼけ眼の息子の胸倉を掴み上げた。
「ジェラルド! こんな真似をしたのは貴様だけだろ!」
「な、なんだ、親父!」
「なんだも、なにもない!! よりにもよって、彼らを敵に回したのか!? 貴様、一体何をしたッ!」
「し、知るかよ! 俺はただ、あんな田舎者どもを、少し笑ってやっただけで——」
「田舎者……貴様、いまセレスティア様をそう呼んだのか!?」
老侯爵の手から力が抜けた。彼はよろめきながら窓辺に寄り、眼下の軍勢を見下ろす。
「中央の貴族が城で着飾って踊っていた数百年、あの者たちは戦場で剣を振り続けていた。本当の戦を知らぬのは、我々の方だったのだ」
声は、すでに掠れていた。
「我が騎士団の取るに足らぬ実力は、お前も知っていよう。ヴァルガ辺境伯は、その我らを救おうと、この縁談を持ちかけてくださった。此度の婚姻は——あの家が、どうしようもない我ら中央貴族にまで差し伸べてくれた、恩情だったのだ。頭を下げるべきは、初めから我々の方だった……!」
「そんな……そんなはずがあるわけ……。辺境の、農民の娘が——」
「その『農民の娘』に貴様は、何をした、と聞いとるんだッ!」
侯爵は息子の胸倉を、もう一度、渾身の力で締め上げた。
「今すぐにセレスティア様に詫びを被ってこい!」
◇
「セレスティア! セレスティアッ!」
震える手が、私の部屋の扉を叩いた。
婚礼衣装をまとい、ありもしない祝宴の支度に取り掛かっていた私は、優雅に振り返ると、そこには寝間着のまま床に膝をついたジェラルドがいた。血の気の失せた顔で、窓の外を見つめている。
「あれを止められるのは、お前だけだ! 俺たちは夫婦になるんだろう!? なあ!」
「……」
「なんとか言え! お前の家の軍なのだろう!? 一言、退けと命じればいいだけだ!」
「――言えば、退いてくださるとでも?」
「そ、そうだ! お前は、俺の妻になるんだぞ! だから当然——!」
私の冷たい表情を悟った彼は、私の裾に縋りついた。
「わ、私が悪かった! これまでのことは、その、あれは全部——」
「冗談だった、と?」
「そ、そうだ! 全部、冗談だったんだ! だから——!」
私は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
そして、恐怖に濡れた彼の頬に、そっと手を添えた。母をあやすような、優しい手つきで。
「存じております」
私は微笑んだ。
「だから、私もたまには冗談を返して差し上げようかと。なので——本気に、なさらないでください」
ジェラルドの顔に、安堵が広がった。全身から力が抜ける。助かった、と。この女は、また俺のために動いてくれる、と。
彼がそう信じきったのを見届けてから、私は立ち上がり、彼を見下ろして、もう一度、穏やかに笑った。
「——ですから」
穢れた手で掴まれた裾を、そっと払う。
「今から起こることも、どうか、本気になさらないでくださいね。すべては、冗談ですから」
◇
屋敷を出ると、二つの軍が、しん、と静まった。
狼の旗の下から、隻眼の老将が馬を進める。私が生まれる前から辺境を守ってきた、母の戦友――バルナードド騎士長だ。
その隣に、灰色の礼服。あの晩の、使節の長。彼は馬上から、私に、静かに頷いた。
「「約束通り——娘御の顔を、見に来ましたよ!」」
私は、二人に頷き返した。
背後にいたジェラルドの安心しきった顔を見て、私は右手を、高く掲げた。その姿を全軍が見届ける。
「この日をどれだけ待ち望んだことか」
そう口にして、手を思いっきり振り下ろすと、バルナードの隻眼が、獰猛に細まった。彼は軍勢を振り返り、雷のような声を張り上げた。
「見たか、野郎ども、——お嬢様から、進軍の許可が出たぞォォ!!」
無数の剣が、朝日を弾いた。
「たっぷり、冗談を返してやれ!」
地鳴りとともに、二つの旗が前へ出る。白い塀が、黒と灰の波に呑まれていく。
崩れていく屋敷を背に、私は歩き出した。
「は、話が違うっ! セレスティアァ——!!」
彼の消えゆく悲鳴には、振り返らなかった。
きっと——『冗談』の一言で片づけた痛みを、何事もなかったように忘れていけるのは、それを言った側だけだ。
……なんて。
まあ、私には関係のない話だ。
そもそも、こんな生ぬるい婚約に、未練なんて最初からなかったのだから。元婚約者のムカつく顔くらい、明日には忘れられる自信があるけれど。
「やだ。いけない、いけない」
私は首を横に振った。
こんなに考え込んで、まるで私が、この婚約を本気にしてたみたいなものじゃない。
「ふふっ……本気にするな、でしたよね。ジェラルド様」
生まれて初めて——心から笑えた気がした。
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