薄れゆく旋律
――それは、レイが職を失ってしまった日のことだった。
今まで気にも留めていなかったフレンチレストランでその足は止まった。
どこか諦められない、やるせない気持ちがそのドアを開いていた。
店内ではステップを踏むように食事を運んでくるギャルソン。真剣なまなざしで皿に命を吹き込む料理人。
見慣れているはずの光景が、遠い過去のように感じる。
レイは、サーブされたオードブルを口にした。
「え?」
口当たり、食感、風味、どれをとっても至極ながらも、「食べてほしい」という感情のような部分がどこか抜け落ちている。
そんな違和感を感じながら、ふと調理場に目を向けてみると、女性の料理人がため息を吐いているのが見えた。
「あの人…かな?」
食事を終えた後、レイはシェフにオードブルを作ったコックを紹介するように依頼した。
シェフは、少し驚いた顔をしたが、下手に出ながら調理場から引っ張り出すように、その女性のコックを呼びつけた。
「ラズ」と申します。
「ラズ」―― 明日を見れない日々が待ち受ける中、未来への扉をそっと開いてくれるような響きだった。
その名が、レイの胸の奥深くに刻まれた初めての旋律。
少し慌てたように、レイは答えた。
「あっ、その、、、オードブル。すごく美味しかったです。ただ…」
レイは、ハッとして今口に出すべきではない言葉を飲み込んだ。
ん?という表情を浮かべたラズに
「あ、いえいえ。本当に美味しかったです…」
と、ごまかしながら当たり障りのない誉め言葉で、料理を賛美した。
レイは次の週もそのレストランを訪れた。
さりげなく、調理場に目をやると一瞬ラズと目が合った気がした。
少し照れながら自然と視線を外し、席に着く。
レイのそれに気づいたのか、ラズはくすっと笑うような仕草をして、くるりと背を向け調理を始めた。
レイは、いつものようにサーブされる前菜を、あの時の違和感を思い出しながら口にしてみた。
「おいしい…」
味覚に集中しすぎて、視点が合っていないレイの口から、思わず言葉が出てしまった。
あの時料理から欠落していた感情のようなものが、いまはしっかりと口の中でスパイスとなってた。
「ラズさん」
レイは初めて名前を呼んでみた。
「今日の料理、本当に美味しかった。また、食べにきてもいいですか?ラズさんの料理」
遠くで見ていたシェフは少し眉をひそめたが、ラズは気にもせず
「ぜひ、お待ちしています」
と笑顔で返した。
”ラズ”― 心地よく胸の奥まで響く名前の旋律。
そして、その旋律は二人を恋へといざなった。
そして、今日も明日も―― ずっとずっと未来でも、奏でるはずだった。
そう願ったはずなのに――。
レイは、そんな夢のような奇跡の出会いの記憶から、ブレーキ音が鳴り響く残酷な現実に意識が引き戻されてた。
体を砕くような衝撃と、鈍い音が響き渡る。
飛び込んできた青色の視界。
地面にたたきつけられ、急転した青は次第にその色を失っていく。
時間のゆがみを感じながら、恐怖ではない不思議な感覚に身をゆだねていた。
「ねぇレイ、今日も一緒に秘密の暗号つくる?」
まぶしい最後の光の中で、ラズがいつもと変わらず微笑む姿に手を伸ばそうとしたその時、空間が暗転した。
いつか二人でながめた、あの夜空のように。
(ラズ、僕のラズ。君の名前、これからも何度でも呼びたい。呼ばせてくれ、ラズ…)
夜空の星達は少しずつ、その姿を消していく。
(ラズ…、ラズ…、ラズ…僕の…)
おとずれる静寂に抗うように、愛しい言葉を心の中で呼び続ける。
「ぁ……ズ……」
最後の一息に力を込めて、ラズの名前を二人の永遠をリングに託しながら、夜空はやがて深く遠い闇に包まれた。




