スピンオフ短編:芸屋博「遠回りの和音」
午後のロンドン。
灰色の空の下、芸屋博は古いジャズバーの隅でギターを弾いていた。
観客は十人ほど。
観光客が軽く拍手を送り、カウンターのバーテンダーが顎で合図する。
「Hey, Japanese guy. That’s real heart you got.」
芸屋はわずかに笑う。
「心だけは減らしたくないんでね。」
ステージを降りると、指先に軽い痛みが残っていた。
弦を弾きすぎたのだ。
それでも、痛みがあるほうが落ち着く。
あの頃、〈残響街〉で毎夜ぶつけた音の熱を思い出せるからだった。
街角のカフェでコーヒーをすすりながら、
芸屋はスマホに届いた1件のメッセージを開いた。
〈宮城タカコ:あの新曲、聴いた? あんたのコード、まだ使ってる〉
指が止まる。
思わず小さく舌打ちした後、微笑む。
「勝手に使うがいいさ。どうせ、もう俺のコードじゃねぇ。」
しかし、その夜。
ホテルに戻ってギターを手に取ると、自然とあの“未完成のフレーズ”を弾いていた。
宮城が歌詞をつけられなかった、あの曲。
平のドラムと岸の重低音、大谷の切り裂く旋律。
彼の指先に、記憶の残響が流れ込む。
ふと部屋のドアをノックする音。
バーで出会った現地の若いギタリストが顔を出した。
「Hey, Geya. Can you show me how you get that tone?」
芸屋は少し考え、ギターを渡した。
「“音”じゃない。“呼吸”だ。
腕で弾くな、肺で弾け。」
彼の英語はつたなかったが、若者の目は真剣だった。
ギターを構え直した彼が、ぎこちなくも確かなリズムを刻む。
芸屋は笑いながら頷いた。
「そう、それ。歪ませなくても熱は出せる。音の中に、ちゃんと自分が居ればな。」
深夜、バーの閉店後。
芸屋は最後に一曲だけ、誰もいないステージで奏でた。
コード進行は〈残響街〉時代のあの曲。
だが、途中からまったく違う方向へと転調していく。
過去と未来が、旋律の中で交わる。
音が止むと、静寂の中で自分の心臓の鼓動が聞こえた。
それはまるで、遠い日本の街で響くベースとドラムのようだった。
「……遠回りしても、やっぱりここに帰ってくるんだな。」
ギターケースを閉じて歩き出す。
外の通りには霧が立ち込めていた。
彼は肩をすくめ、つぶやいた。
「帰るか……残響街の奴らのところへ。」
夜明け前の街を抜けるその背に、
ひとつのフレーズが確かに漂っていた。
再び誰かと音を交わすための、あの不協和のメロディ。




