スピンオフ短編:平幹夫「拍の向こう側」
午前五時、街がまだ眠っている時間。
平幹夫は、マンションの一室で古い電子ドラムのスイッチを入れた。
近所迷惑にならないように設定を最小音量にして、ただひっそりと叩く。
「……バスドラの重みが足りねぇな。」
呟きながらも、リズムを刻む手は止まらなかった。
叩くたび、遠い記憶が波紋のように広がる。
ステージの轟音。宮城の声。岸の低音。
そして、二本のギターが衝突しながら生むあの震え。
〈残響街〉の音は、未だに身体の奥に染みついていた。
けれど今、それを共有する仲間はいない。
昼、平は近所の中学校の音楽室にいた。
教育委員会の依頼で、放課後に“リズム講座”を引き受けていたのだ。
集まった生徒の中に、ひとりだけやけに目立つ少女がいた。
ドラムを触るのは初めてのはずなのに、叩くたびに拍が自然と“前のめり”になる。
平は笑って言った。
「悪くねぇ。走るのは悪いことじゃない。走る理由があるなら、な。」
少女は首をかしげた。「走る理由、ですか?」
「自分の“好き”を待てないとき、人は無意識に走るんだよ。」
そう言って、平は自分のスネアを一打。
乾いた音が、放課後の静けさを割った。
奥の壁に貼られた校歌の譜面が、かすかに揺れた。
夜になっても、平は帰らなかった。
誰もいない音楽室で、ドラムスティックを回す。
窓の外の夕闇に、街の灯りがぽつぽつと灯る。
「結局、俺は“拍”の中でしか生きられねぇんだな。」
そう呟いた瞬間、ふとイヤモニから流れてきた。
宮城の新曲だった。
しっとりとしたテンポに、ほんの一瞬だけ空白がある。
——そこに、平は思わずスティックを落とした。
「この間……俺に叩けって言ってるな。」
笑いながらドラムを再び構える。
ゆっくりとハイハットを刻み、低く力強いリズムを足で踏み込む。
電子パッド越しの音なのに、確かに“残響街”の鼓動が蘇った。
次の日、学校の生徒が作った小さな案内ポスターにこう書かれていた。
「放課後リズム部 募集中 特別講師:たいら先生」
ポスターを見上げた平は、静かにスティックケースを叩いて笑った。
「いいじゃねぇか。“次の拍”が始まりそうだ。」
窓の外には、朝日が昇り始めていた。
そのリズムは、まるで新しい一曲のイントロのように眩しかった。




