スピンオフ短編:岸「沈黙のリズム」
朝の光がうっすら射し込む狭いスタジオ。
岸はベースの弦を一本ずつ磨いていた。
ステージに立たない日は、こうして指先の感触を整える。
磨くたびに、かつての“音”が脳裏に蘇る気がした。
手を止め、静かに弦の上を指で滑らせる。
——まだ鳴らしていない音が、指の中で脈打っていた。
音楽仲間からは、“無口な基礎職人”と呼ばれている。
派手なソロも、ステージで目立つポーズもない。
だが〈残響街〉のレコーディングでは、彼の一音が全員の呼吸を決めた。
平がいつか言っていた。
「岸がズレねぇから、俺は思いっきり叩けるんだ。」
それが誇りでもあり、呪いでもあった。
昼、後輩のバンドが練習に来ていた。
岸は仕込みのように隅でコーヒーをすすりながら、彼らの演奏を聴く。
完璧なテンポ、きれいに揃ったハーモニー。
でも、何かが引っかかった。
音が“怖がってる”。
攻めない低音、守るコード進行。
譜面上は正解でも、魂が鳴っていない。
岸はぼそっと言った。
「間違ってもいいから、もっと外して弾け。」
若いベーシストが驚いたように振り向く。
「そんなこと、教わったことないです。」
岸は短く笑った。
「俺も、あいつらに会うまでは知らなかった。」
—
夜、誰もいなくなったスタジオで、岸はベースを構えた。
アンプの電源を入れずに弦を弾くと、空気の震えだけが指先に返ってくる。
その微かな響きが、心の奥に真っすぐ届いた。
「あいつらの音、まだ響いてるんだな。」
窓の外には街の灯り。
タクシーのライトが流れ、遠くから店のシャッターが閉まる音が聞こえた。
その何気ない雑踏さえも、今はリズムに聞こえる。
岸はゆっくりとドラムパターンを思い描き、そこに自分の低音を重ねた。
無音の中に広がる、静かなセッション。
その音は誰の耳にも届かない——
だが、確かにこの街に残っている。
彼はふと笑った。
「……沈黙も、リズムの一部だ。」
—
翌朝、若いバンドのベーシストからメッセージが届いた。
〈昨日言われたこと、やっと分かりました。音が呼吸してる気がします。〉
岸はスマートフォンを閉じ、楽器ケースを肩にかける。
そして独り言のように呟いた。
「それでいい。あいつらの残響が、ちゃんと残ってる。」
彼の歩く後ろで、自動ドアが閉まるとき、小さな低音が鳴った。
短いけれど、確かな残響だった。




