才能と社会
才能に対する最も馬鹿な見解とは宝くじを当ったと思い込むことである。才能さえあればどうとでもなるわけがない。というか多くの人間にはそれほどの才能は無い。だから人は勉強するのだ。
そしてもうひとつこれはあまり関係ないが、才能があれば主人公万歳は嫌いだ。才能を憎んだ人間が才能を持ったらそれを賛美するとは気色が悪い。君たちは脇役の恰好良さを知らないし、自分への誇りが足りない。能力主義が優生思想に交わっては悲惨なものだ。どんな役割であろうが、全うすればこそリスペクトされるべきだ。自分を含めてである。
私がこう思うのはNBAを見初めてである。見ての通り彼らはかなり才能があるが、かなりハードに鍛えている。もしサボればすぐに追い越されて解雇される。されどこれは努力の話であるが、頑張りすぎても怪我をして解雇される。
私は運動部が嫌いだ。厳密に言うと横暴な顧問、教育者が嫌いだ。そのコーチングや作戦、方向性はあっているのか、気合いだ気合いだと言ってまともなスポーツをさせないのはクソである。そもそもそれはその競技に取り組んでいると言えるのか。間違っていてもいいが、間違っていることを認めて進んでいく精神はあるのかということだ。
単純な話である。結果が伴っているかである。もちろんそこには最低限以上の人間関係も含まれる。結果を伴っていない人間は見直さなければならない。その思想が無ければ成長はそこにない。その上でどう伸ばすのか、何が必要なのか、そのやり方を示さなければならない。なぜ負けたのか、なぜ勝てたのか、自分と敵との相性、ここが弱点、されど今はここを伸ばすなど。個性を優先するのか、全体としての動きなのか。その判断であり、失敗すれば見直し、場合によってはそこから降りる。
つまりこれはだいたい日本社会の話をしている。結果ではなく流れで誤魔化しているところないかという話だ。とにかく量をこなさせるばかりして、非効率的な作業ばかりさせて、結果として鬱にさせてないかというところだ。仕事させて怪我させるとかシボドーに憧れているのか。他にも適当な勉強をさせて、教え方があっていないのに才能が無いと切り捨てるなど。
形ばかりの政治、社会、人間関係、それから経済。先送り先送り、時代遅れ。そのようなところでずっと効率が悪い、方向性の無い努力ばかりをする。あやふやなのだ。仮に才能があっても環境が運任せでは開花するはずもない。才能がなくとも動けるようにしなければならないのに、その技術が無い、というか古い。移民よりもまず古臭いやり方を一新して、効率を求めるべきだ(右翼)。
重要なのはやり方ではない、そこにある思想である。このような社会の環境となると、日本は迷走する。そうならないための大学であるが、結局リベラルを批判すれば差別と祟られる環境なので、真理を追究できないが、つまりはあやふやな考えで進もうとするその思想をやめて、実直に方向性を示す思想を定着させなけらばならない。もっと言えば、夢を捨てるのだ。夢ではなく計画を持つという思想が必要だ。
シュメール人でもやっている。星の運動を計り、それを数字にして季節を計る。データと数字、前例。それから個人の相性とどう合わせるのか、時間と負担をどう減らすか。あと人を増やすのではなく減らす。少ない人数でできるようにする。こういった計測、計画。それに加え積極的に新しい技術を覚える姿勢だ。
特にこういった計画思考は少年少女の勉強で鍛えるべきだ。むしろそのための学校のはずだ。だが実際はそうではないようだ。どこの教師も大概投げやりである。なぜかはわかる。というかある教師が言っていた、将来に行き詰まった人がなるのが教師、だと。計画性の無い人間がこの思考を教えられるわけがない。あと長年経済停滞している政府も。
これは右翼思想ではないが、実のところ、ヒトラーもいったかわからんが、民は馬鹿な方がいいらしい。家畜が賢くなったら大変だ。リベラル思想や増税思考を洗脳できなくなる。これは右翼的だった。が、詐欺師やカルトにとっては数字を計れない人間は騙しやすい。政府もプロパガンダにおいて楽だ(だいたい粛清するから必要ないだろうが)。
ただ経済的にはそうではない。数字と技術があるほうが強い。強いが、その前に社会が強い。社会が技術を認めなければ発展しない。されど技術とは雇用を奪うものである。嫌がる人は多い(技術に寄らず、才能もであるが)
良くも悪くも技術や才能は社会を一変する可能性がある。それによって資産を失う人間がいる。大抵今、資産がある人間だ。彼らは自分たちの立場を守る為にそれらを排除しようとする。あるいは独り占めしようとする。そのあまりに技術と才能が広まらなければ経済は遅れる。




