愛よりも遅く
子供が大学入学と同時に家を出た。
妻と二人きりの生活が再び始まるのは、なんだか不思議な気持ちだった。
子供はいわゆる「育てにくい子」だった。妻は子供にかかりっきりになった。俺自身も、子供の相手に四苦八苦した時があった。まだ大学生だが、やっと独り立ちして感無量だ。
子供が赤ん坊の時は、父親は仕事、母親は育児だと決めつけてしまっていた。
「母親なんだから、子供の面倒は妻の役目だ」と押し付けながら、俺の相手をしないことに不満だった。
仕事をしていると、周りの女性は身綺麗だ。
何で妻は、あんな格好なんだ。そして、綺麗にするのも不満だった。母親のくせに化粧なんて必要ないだろう、と。
あの時の俺は不満を妻にぶつけて、仕事で出会った女性を見つめていた。
何年かして彼女と別れ、子供も話せるようになり、相手をするのが楽しくなっていった。
その時は、ただ家族で仲良く暮らしていると思っていた。
妻も子供も俺を愛してくれている。だから、俺も仕事を頑張っていた。
子供が巣立ち、妻に一人の時間が出来るようになって数ヶ月。
早く家に帰っても、18時なのに妻がいない時があった。最初は、夕方の散歩か買い物でもしてるのかと思っていた。
ふとカレンダーに「演奏会」「読書会」「映画鑑賞会」と書いてあるのに気付いた。今日の日付には「読書会」と書いてあった。
何だこれ?出掛けていたのか?
なんで俺に言わないんだ。秘密を持っていた妻に、少し憤りを感じた。
ピンポーンとインターホンの音がして、妻が帰ってきた。
不機嫌を隠して「おかえり」と声をかけた。
「ただいま」
妻はそれだけ言って部屋へ入ろうとする。
何でどこへ行ったか話さない?
「ーーー最近、よく出掛けるね」
俺は妻が説明するのを待った。
「本好きが集まるサークルに入ったの」
「……」
それだけ?他にもいろいろあるはずなのに、妻は何も言わない。
コーヒーを淹れながら妻が話すのを待っていたら、スタスタと歩いて自分の部屋に入っていった。
何も話さないで終わらせた?
追いかけて聞くか迷ったが、サークルに入ったと言っていた。
なら、まあいいか。
ずっと子育てで子供に付きっきりだったんだ。
自由に外出できるのが嬉しいんだろう。
そう結論付けて、自分の部屋に戻った。
俺の生活は何も変わっていないのに、
妻は何かを取り戻すかのように、活き活きと生活していた。
特に読書にハマっているようだった。
昔はよく子供と図書館へ行き、沢山の本を借りてきていた。でも、読む時間がないと言って、そのまま返すこともよくあった。
「読めないなら借りなきゃいいのに」と思っていたものだ。
楽しそうに本を読む妻。
何だか綺麗になった気もする。
それは、子育てが終わったからなのか、サークルが楽しいからなのか、わからなかった。
ただ、何も変わっていない自分に焦りを感じた。
なんで妻だけが。
好きなものを手にして、キラキラと目を輝かせている姿が羨ましかった。
ある日、早く家に帰れた俺は、妻がスマホで何かを検索しているのを、ヒョイと覗き込んでみた。
「映画鑑賞会?」
「そう。映画好きな人たちと映画館で映画を観るの」
妻は何でもないように言った。
何で、俺を誘わずに他人と行こうとするんだ?
いつも妻は、自分が何をするか俺に話さない。
「なんだよ。俺と観ればいいじゃないか」
「え?」
妻は困惑した表情だった。
「でも、あなたが楽しめる映画じゃないわよ。ほらこれ」
そう言ってスマホを見せてきた。
魔法の杖を掲げている魔法使いが映っていた。
「…じゃあ、他のにすれば良いじゃないか。他は何をやっている?」
そう提案したら、妻は思い切り嫌そうな顔をした。
「だから、私はこれが観たいの。なぜ違う映画に変えなくちゃいけないの?」
「2人で楽しめる映画にしようよ」
そう言うと妻はため息をついた。
「ねえ。もう子供はいないの。やっと自由に生活できるようになったの。なのに、今度はあなたに全て合わせなくちゃいけないの?」
「そんな言い方ないだろ」
「観たい映画を我慢させられて、何を楽しむの?」
妻と俺は趣味が合わない。
俺はアウトドア派で体力に自信がある。妻はインドア派で、よく身体を壊していた。
妻に合わせると、やりたいことができなかった。
「俺だって合わせてやっていたのに。お互い様だろ」
「だから、お互いもう無理せず暮らしましょうって言っているの」
妻は自分の部屋に入っていった。
妻のテリトリーに俺は入れない。拒絶されたような感じがした。
仲の良かった仕事仲間が突然亡くなった。
お通夜に急いで向かうと、奥さんや息子が気丈に立っていた。
二人とも面識があった。息子は父親の仕事を手伝っていて、4人で食事をしたこともあった。
「ああ、椎名さん、来てくださってありがとうございます…」
顔色の悪い奥さんが頭を下げる。
帰り際、2人で少し話せる時間があった。
「あの人と…もっと話せば良かった…」
ポツリと聞こえた言葉に、胸が痛くなった。
俺が死んだら、妻は悲しむのだろうか。
忘れないでいてくれるだろうか。
そんな気持ちが溢れた。
その後数日は、妻に忘れられないようにと思いながら、優しく振る舞った。何度も顔を見せに行った。
始めは怪訝な顔をしていた妻だったが、少しずつ冷ややかになっていった。
「ねえ…何故自分が先に逝くと思っているの?」
「え?」
「体力がない私の方が先に逝くかもって、何で思わないの?
今ごろ、自分が先に逝ったらなんて思っているの?
私は、出産した時から毎日思っていたよ。
今逝けば、誰にも気付かれず、子供も道連れになっちゃうんだろうなって」
今よりずっと若くて、赤ん坊に笑いかけて、何度も喧嘩していた時、妻は毎日そんなことを考えていたのかと衝撃を受けた。
こんな気持ちをずっと持っていたのか。
「言ってくれれば良かったじゃないか」
そう自分が言った時の妻の顔は、今は思い出せない。
でも、確かに聞こえた。
「だってあなたは、私に興味なかったでしょう?」
ーーー妻は知っていたのだ。
俺が何をしていたのか。
妻は自分の部屋に入っていった。
その日は、出てくることがなかった。
そんな事があっても、日常は続く。
会話が無い生活は面倒で、少しずつ話し出す。
笑いあうこともある。
それでも、心から寄り添う素振りはなく、妻の心からの笑顔を見ることはなかった。
いつから見れなくなっていたのだろう。
いつから…見限られていたのだろう。
それでも、生活は続く。
スマホに妻からメッセージが入った。
ー来週の土曜日は、サークル仲間と映画行ってくるー
決定事項の報告。俺達は趣味が違うから、きっと俺の観たくないジャンルなんだろう。
ーわかりましたー
返事を送った後、スマホをスルリとポケットに仕舞う。
妻は俺を求めない。
俺はもう、妻を求める資格などなかった。