恋よりも淡い
夫と結婚して20年経った。
息子は大学生で家を出る。夫婦二人の生活が始まる。
でも、もう私は夫を愛していなかった。
初めて恋をして、結ばれた相手。
そう説明するとまるで物語のような愛。
出産して、いろんな喧嘩をして、泣いて、笑って、泣く回数が多くなった頃、私の恋心が消えた。
ああ、夫に失恋したんだ。
そう気づいたのは結婚十数年目。
随分と長い年月、恋焦がれたわね。
その後は、自分でもびっくりするほど、心が震えなかった。
家族になるとはこういう事かしら。
夫は家族になった。いつでも離れられる家族。
ーーーー恋がしたい。
若い頃のような激しく心が揺れる恋じゃなくていい。
ただ、話せるだけで嬉しい、笑顔が見れるだけで幸せになれる淡い恋。
大切にされなかった自分は、別の相手でも大切にされないのか試したかった。
もう一度、失恋してもいいなとも、思った。
だって、落ちた恋の数が少な過ぎて。
なんだか恋が欲しくなったの。
夫は私の行動に特に興味がないおかげで、習い事を簡単に始められた。
一人で楽しむものではなく、
コミュニケーションを楽しむものを選んだ。
演奏や読書会。ヒラヒラと蝶が舞うように、どこかに素敵な人がいないかな、と参加した。
目的はとても邪だけど、普通に習い事は楽しかった。
ずっと子育てに追われていた日々。思春期は大変で、夫の労りの声もない。
知らず知らずのうちに、私自身の心は擦り切れていたのだろう。
そこで出会った人たちと、笑い合い、気遣い、楽しむ空間が、とても癒してくれた。
家に帰ると現実が見えるけど、家族への悲しみにはもう興味がなかった。
自分を綺麗にしたい。もっと上手になりたい。
人生を楽しむってこういう事なんだな、と今更気付いた。
元々、恋に落ちる回数が少ない私は、恋に落ちにくいタチらしい。
というか、恋って勝手に落ちるものだから、やろうと思って出来るものじゃないわよね。
他人様から奪いたいとも思えない。
独り身の人がいても、傷つけられた思い出が私を止める。
ーーーいつか、一度だけでいいから、夫以外の人に抱きしめられたいーーー
中々うまくいかないわねえ。
ひっそりとため息を吐いて、読書会の席で始まるのを待つ。
「どうしたの?具合でも悪い?」
同じ仲間の木内さんが声をかけてくれた。
私より少し年上の男性だ。穏やかで、本が大好きな人。
おすすめをよく教えてもらって感想を言い合う仲だ。
この年だと、悩みより健康を心配されてしまうわね。苦笑をしつつお礼を言う。
「何でもない。ただ、何かいいことないかなーって思っただけ」
「ははっ、そうか。何かいいことね」
木内さんは、少し面白そうに笑って私を見た。
「いいことが起きないなら、起こせばいいよ。はい、これ貸してあげる。今回はファンタジーもの」
「えっ、ありがとう」
彼が貸してくれる本はどれも面白い。私はあっという間にご機嫌になった。
「いいことあったわ」
私は木内さんに笑顔でお礼を言った。
「読まなきゃいいことか、わからないよ?」
「木内さんが貸してくれる本はどれも好みだもの。読む前からわかるわ。あと、読む前の本って持ってるだけで嬉しいのよね。ワクワクして」
「わかるよ。ページを開く前の楽しみ、たまらないね」
二人でクスクス笑い合う。
ああ、楽しい。趣味が合うってこんなに楽しいのね。どうして私は全く違う趣味の夫に恋をしたのかしら?
木内さんに恋をできたらいいのにね。
でも、この間柄もとても心地がいい。ふわふわとした楽しい時間。月に2回だけの穏やかな楽しみ。
私は、喜びの形を大切にしまって家に帰った。
今日は夫が早く帰っていた。
「おかえり」
ニコリともしないで、こちらを見ずに言う。
「ただいま」
何の感情もないただの言葉の羅列。
ああ、早く本が読みたい。
「ーーー最近、よく出掛けるね。」
夫が探るように言ってくる。暇なのかしら。
この人は時間に余裕ができた時だけ、退屈しのぎに声を掛けてくる。私の話なんか興味ないのに。
ラジオを流すように、私の近況を聞こうとする相手に話したい事は何もない。
「本好きが集まるサークルに入ったの」
「……」
興味を持てなかったようで、返事もなくコーヒーを淹れ出してた。
ーーーああ、早く、本の世界に入りたいーーー
自分の部屋に入り、着替えと片付けを終えて、ゆったり本を読む準備をする。
ページを開く前に思い出すのは木内さんの笑顔。
ささくれた心が、丸くなった。
良かった。今日は、いいことで終わる。
ペラリとページをめくった。
「これ、ありがとう!とても面白かった!」
「でしょ!喜んでくれると思ってたよ」
少し興奮気味で木内さんにお礼を言った。
本当に面白い本だった。終わってほしくなくて、最後まで読むのがもったいなく思ったほど。
木内さんは嬉しそうに本を受け取る。
「また、オススメあったら持ってきていい?」
「いいの?ありがとう!」
ふふ、中学生みたい。昔、こんな関係あったわね。
その子もたくさん貸してくれたっけ。
「あの、今度この本が映画化するんだ。良かったら、一緒に観に行かない?」
「え?そうなの?行きたい!」
あらまあ、お友達と映画!
出産してから、しなくなってしまった遊び。心が浮き足立つ。
でも待って。危ない危ない。
「奥さんと行かないの?」
「あれ?言ってなかったっけ?僕は独身だよ」
「あら?そうだった?まだ中学生の子供が二人いるって」
「それは小林だよ」
「やだ、ずっと勘違いしてたわ」
なんだ。そっか。じゃあ一安心ね。
「君もそうでしょ?」
「え?私は結婚してるわ。もう息子は大学生で巣立ったけどね」
「えっ、ごめん。じゃあ映画行くなんて良くないよね」
「あはは、気にしないで。うちは私が何をしても興味ないわ。だから大丈夫」
本当は嘘。
夫は、自分は自由にしたいけど私は家に閉じこもる専業主婦じゃなきゃ嫌な人。馬鹿馬鹿しい。
他人に会うのが許せないなら、自分が連れ出してあげればいいじゃない。家に籠るのはもう飽きたの。私も自由に外へ出ることにしたのだ。
大体、映画に行くだけだもの。
夫がしたものより軽いわ。
心が明るくなっていけばいくほど、家の中が息苦しくてたまらなくなっていった。
でも、木内さんに迷惑はかけれないわね。
「じゃあ、夫のOK取れたら行かない?」
「それなら、いいけど…」
「ふふっ、聞いてみるわね。何曜日がいいかな?」
「うーん、来週の土曜日かな」
私はスマホで、夫にメッセージを送った。
ー来週の土曜日は、サークル仲間と映画行ってくるー
少ししたら返信が来た。
ーわかりましたー
「良いって」
「そっか。じゃ来週の土曜ね」
「うん」
嘘は言ってないわ。どんな人かは言ってないだけ。
なんだか自分が悪女になったみたいね。
夫もこんな気持ちだったのかしら。
相手の気持ちなんてなんにも気にしない。自己中心的な気持ち。笑っちゃうわね。
綺麗な恋をしたかったのに。
なんだか汚れてしまった気がした。
土曜日はウキウキとした気分だった。
念入りにオシャレした…つもりだけど、どうかしら。
いつも滅多に出掛けない私の、長い時間をかけたよそいき服装チェックに夫は慣れたもの。
「まだ行ってないの?9時半に出るって言ってなかった?」
「あーっ!?ヤバイヤバイ!行ってきまーす!」
バタバタと玄関で靴を履いて出る。
急いで待ち合わせの場所に行くと、木内さんが待っていた。
いつもと違う、二人だけの遊び。ちょっぴり緊張する。
映画館では、飲み物を持って、席につく。
館内って、不思議な空間よね。いつもなぜか緊張するの。
始まると簡単に外へ出られないからかしら。
「いやあ、この映画、観てみたかったんだよね」
木内さんがウキウキと話をする。
ずっと機嫌のよい男性と穏やかに話すのは、なんて楽しいんだろう。
隣の彼の存在を感じながら観る映画は、私の大切な思い出になった。
その後も、読書会では彼に会う。本の貸し借りをして、感想を言い合う。
たまにお出かけもするけれど、やましいことは何もしていない。
ただの、仲の良いお友達。
抱き締めてもらったら、どんな気持ちだろう…
そんな気持ちを抱きながら、彼の側で笑ってる。
この年で、大恋愛はいらないの。
穏やかに過ごせる相手が欲しいだけ。
家族はいるわ。両親より距離が遠い、よくわからない関係の人。
夫は私に何も求めない。
だから、私も求めない。
「これ、あげる。誕生日って言ってたから」
木内さんから、一冊の本をもらった。
それは淡い恋の物語。
結ばれないけど、いつまでも友達として穏やかに過ごす二人の話。
この涙は、嬉し涙かしら。
夜に一人、ベッドで本を抱きしめて眠った。
ああ、幸せが広がる。
お返しは何が良いかな。綺麗な花の栞にしようか。
ーーーそれなら、気持ちを返せるから。