第三十九話 日常
「ねえディー、乳房がひとつしかないってほんと?」
「ぶーっ! げほっげほっ、ごほっ」
カルミネが盛大に噴き出したポタージュがラヴィニアに直撃する。ハンカチでそれを拭ってやりながら、嘘よ、と端的にフェデリカは答えた。
「ななななん、何を言っているんだアホツァーレ! 貴様はだからアホだというんだ!」
「はー失礼な! 教授に聞いたんだもん」
「は!? アンヌンツィアータ、ではなくええと」
「もう面倒くさいからデアンジェリスでいいわよ——そうね、私はコルティノーヴィス教授に乳房がふたつある理由をお伺いしたわ」
「ええい、昼間からはしたない話をするな!」
「「医学的な話『だ』よ」」
「なぜそこで声をそろえる......」
カルミネは項垂れている。ここにレナートがいれば仲良くできたかもしれない。今は学長に会いに行っているので不在だ。
「重くて邪魔なんだもの。ひとつじゃダメなのかしらと思って」
「なるほど! 確かにディーは胸大きくて大変そう」
「ええ。コルセットは苦しいしさらしを巻くと息ができないし。不便よ。ひとつの方が楽そうじゃない?」
「確かにー」
「頼むから私がいないところで話をしてくれ......」
「「どこか行けば(いいのではなくて)?」」
「お前が誘ってきたんだろうがアホツァーレ!」
「あ、そうだった!」
やいのやいの言い合う二人を置いてフェデリカは物理学の研究室に足を運ぶ。魔法は嘘と言ったけれど、あの空間だけ時の流れが早い気がする。
しかし今日は、そんな魔法の空間に長くいることはなかった。
「おーいフェデリカ。お前の実験だけど、星見の塔と聖堂の鐘撞き場からの許可取れたぞ」
「ほんとうですか、ユルゲン教授!」
「ああ。その辺の学士捕まえてやってこい」
「ありがとうございます!」
フェデリカは知り合いの学士に頼み、星見の塔に向かってもらった。もうひとりには聖堂に先行してもらう。持ってきておいた実験道具を取りに客間に戻ると、ちょうどレナートと鉢合わせた。
「どこに行くの?」
「聖堂です! レナートも来ますか?」
「実験の邪魔にならない?」
「大丈夫ですよ! 退屈かもしれませんけど」
「じゃあ一緒に行くよ」
ひょいと道具を抱えられ、フェデリカは相好を崩した。地味に重かったので助かった。
「ありがとうございます、レナート」
「お安い御用さ」
フェデリカは逸る気持ちで回廊を進んだ。
***
「はぁああああ......うまくいかない」
フェデリカは実験結果を眺めて溜息を吐いている。試行錯誤を繰り返すこと6日、大学に来て8日が経っているが、未だに満足のいく結果を得ることができないらしい。それでも口元には笑みが浮かんでいる。
「そう言っている割には、楽しそうだけど」
「実験できるだけで幸せなことに違いありません。レナートも、協力してくださってありがとうございます。荷物番とか道具持ちとか、退屈でしたでしょうに」
「君が研究しているところを見るのは楽しいから大丈夫」
そうですか、とフェデリカは不思議そうにしている。
「滞在も残り2日か。早かったね」
「はい......名残惜しいです」
レナートは目を細める。表情よりも声が、フェデリカがここを去り難く思っていることを伝えていた。
フェデリカは王宮でドレスを纏っている時よりも、ここで白衣を着ている方が美しい。
実験に失敗して頭を抱え、成功して瞳を輝かせ、設置を変えようと駆け回る姿は、空を飛ぶ鳥のようで、海に泳ぐ魚のようで、どこまでも生き生きしている。
2年半。この期限が過ぎれば、フェデリカはまたここに戻る。レナートの生殖機能に問題がないことが分かったから、退位の必要性も失せた。もう何も考えずにレナートの手を離すだろう。
「――レナート?」
「あ......すまない。少しぼうっとしていた」
「ふふ。レナートも大学に染まりましたか?」
「政務が出来なくなりそうだな」
「違いありません」
ここはよくも悪くも俗世から隔絶された場所であると思う。学士も教授も思い思いに学び、研究し、世の中の情勢がどれほど変わろうとも、きっと変わらずに在り続ける。
「フェデリカは......」
「はい」
「大学に戻って、いつかは教授になるのか?」
「そうですね。私はずっと研究していたいので、そうすると思います。キエザは教授職が狭き門ですから、別の大学も検討しますが......できればここにずっといたいですね。あぁでも、他国に留学するのもいいかもしれません」
婚約したときの反応や机が残されていたという話を聞き、レナートは笑った。きっと子爵邸や辺境伯邸よりも、ここがフェデリカの家に相応しい。
「――君は、ずっとここにいそうだ」
「そう出来れば幸せです」
フェデリカはどこまでも幸せそうに微笑んだ。レナートは頬に手を伸ばす。その存在を確かめるかのように。
「どうかしましたか、レナート?」
「......いや。君がここに残ると言い出さないか不安でな」
「契約を違えるつもりはございません」
「――……あぁ、知っている」
レナートは射干玉色の髪を一筋掬い、口づけを落とした。




