繰り返す毎日
翌日、真理子はいつも通り「おにぎり工房ひなた」を開けた。
炊き立ての湯気に包まれ、出汁の香りが店内に広がる。
常連客が次々と暖簾をくぐる中、しかし——悠の姿だけは現れなかった。
あの夜の事が胸をよぎる。
ただ、真理子は黙々と塩むすびを握り続けた。
◆
一か月が過ぎた。
まだ薄暗い早朝、店の戸を開ける前。
仕込みの米袋を抱えながら裏路地に足を踏み入れた真理子は、思わず息をのんだ。
——!!
スーツは破れ、所々に血のシミが。顔には切り傷と痣、唇は乾ききっていた。
その体は、今にも消え入りそうなほどにやつれていた。
「……あんた、なにしてんの」
真理子は米袋を放り出し、佐伯悠を抱き起こす。
悠の目がかすかに開き、弱々しい声が漏れた。
「行くとこなくて…」
「ええから しゃべったらあかん」
「……組織を……抜けたんだ」
真理子は一瞬止まったが無言で店の中へ運び込み、応急処置を施した。
包帯を巻き終えると、悠は途切れ途切れに語り出した。
「制裁が来た……刺客だ。何人かは……倒した。だが、なぜか途中で奴らは急に引いた」
「……うん これやろ」
真理子はテーブルの上の新聞を悠に見せた。
号外と書かれたそこには大きな見出しが踊っていた。
『政権交代 与党大敗、野党連立へ』
「……後ろ盾を失ったんや。組織はもう……解体された」
真理子はしばらく虚ろな目で新聞を見る悠を見つめ、やがてふっと笑った。
「まあ、考えるんは後でええ。まずは……食べや」
そう言って炊きたての塩むすびを差し出す。
悠は無言でかじりつき、しばらく咀嚼した後、ぽつりとつぶやいた。
「……うめえ…」
◆
数週間後。
「おにぎり工房ひなた」には今日も人が並ぶ。
真理子は白い割烹着姿で、慣れた手つきでおにぎりを結び、笑顔を向ける。
昼どき、店の外には子どもたちの笑い声が響く。
一方、悠は満員電車に揺られながら証券会社へと通勤していた。
スーツの襟を正し、資料を確認する。
営業先では値下がり必至の銘柄ではなく、確かに将来性のある株を勧めるようになっていた。
「佐伯、最近調子ええな」
同僚が声をかけると、悠は微笑みながら答える。
「……お客さんが喜んでくれるのが一番いいから」
◆
昼休み。
オフィスビルの屋上で、悠は弁当袋からおにぎりを取り出した。
包み紙の端に、小さく赤い「ひなた」の印。
「えぇ…またサラダおにぎりかよ 鮭って言ったのに」
――あんたは野菜食べなあかん 早死にすんで! と真理子はしつこく言っていた――
遠くの海には大きな外国船が数隻浮かんでいる。
頬に当たる初夏の風は心地よかった。
海苔を噛み、塩の加減に目を細める。
遠く街の喧騒の中、悠はひとり、静かに空を仰いだ。
——今の悠は少し前の自分ではない、未来は未知だが黒くはなかった。
しかし、不安は消えるわけでは無い、闇の世界に一度足を踏み入れた以上、何も起こらないという可能性はゼロではないのだから。




