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前夜

夜の汐路市、時折湿った潮風が悠の頬をなでた。悠は仕事を終えて神戸から戻り、人気(ひとけ)の薄い通りを歩いていた。舗道を踏む革靴の音、宅配バイクの音、時折鳴る遮断機のカンカンという音が、妙に耳に残る。


 こんな夜道は女性ならちょっと怖いだろうなと思ったそのときだった。

 路地の暗がりから、女が現れた。


 カンカンとヒールを鳴らし、胸の谷間が強調された黒のワンピースに黒い毛皮のハーフジャケットを羽織り、肩甲骨辺りまで伸びた黒髪は艶やかで、頬には洗練された化粧。背筋をすっと伸ばし、怪しい光をまとったような堂々とした歩き姿。


 この街にはそぐわないタイプ。まとったオーラがただ者ではない。

 一瞬、悠は見知らぬ女優でも見かけたのかと思った。

 だが、その横顔を見た瞬間、息をのんだ。


 ――真理子だ。


悠はすぐに下を向きスマホを見るそぶりをしたが、その一瞬、彼女がこちらを見た気がした。

虎に睨まれるような感覚であり、同時に見下されている気分にもなった。


 昼間、白い割烹着にそばかすのある、今ではちょっとした人気者のおにぎりを握る女。あの真理子と同一人物とは、誰も思わないだろう。だが悠の目はまちがっていない。

 眉のわずかな上がり方。視線を走らせる癖。

 見落とすはずのない細部が、悠の観察眼を突き刺した。


 彼女は誰とも言葉を交わさず、行きかう通行人も思わず振り返る。

 そして夜の繁華街の灯りに溶けていった。

 悠は数歩、無意識に後を追おうとしたが止めた。

 彼女は振り返ることなく、まるで舞台の幕裏へ消える役者のように姿を消した。


 どこから出てきたんだ?

 悠は女の出てきた方向に少し歩いて戻ってみたが、

 そこには古い廃ビルがあり、行き止まりになっていた。


 やはり素人ではない・・・か


 こうもあからさまに、大胆に。

――俺がいるのを知っててか・・・―—



 翌朝。

 汐路市の通勤電車の車内。

 小さなワイドショー番組を映すモニタが、突如ざわめきを運んできた。


「速報です。昨夜遅く、汐路市北部の廃ビルで身元不明の惨殺死体が発見されました。現場は激しい争いの形跡があり、警察は殺人事件として捜査を開始しています――」


 モニタに映し出されるのは、規制線を張る黄色いテープと、顔を青ざめさせた刑事たち。

 リポーターの声が、やけに冷たく響く。


 悠は吊革を握ったまま、目を細めた。

 「あの廃ビルだ・・・」

 昨夜、自分が目撃した“真理子”の姿。

 そして今、報じられる惨殺死体。


 全く関係がない、とは言い切れなくなった。

 ―—なんだろうこの気持ち――

 おにぎり屋の店主であって欲しくないと心のどこかで思ってる・・・?

 決定的な証拠は何ひとつ無いが


 ――いや、感情はとうの昔に捨てたんだ


 電車の車輪がガタンと揺れる。

 悠は小さくため息をつき、窓の外を流れる灰色の街並みに視線を投げた。


 その夜、この街に来て数回利用した事のあるデリヘル嬢をめちゃくちゃに抱いた。

 嬢「佐伯さん・・・痛い・・・」

 悠「ごめん・・・もう帰って」

 嬢「なんか今日おかしいよ? なんかあった?」

 悠「・・・ごめん お金」

悠は無造作につかんだ1万円札数枚を、彼女に差し出した。

 嬢「こんなに・・・? こんなにもらえないよ」

 悠「・・・帰れっつってんだろ」

普段の態度とは違う悠の変化に、デリヘル嬢は青冷めた。

乱暴に悠の手からお金を奪い取ると、慌ててアパートのドアを開けて出ていった。


一人になった悠は、ほとんど空の冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。

その瞬間 ピュン! と音がして、缶ビールの腹からビールが噴き出した。


――狙撃だ!―—


悠は咄嗟に部屋の明かりを全て消した。明かりを消していく最中、引き出しからナイフを取り出すことを忘れなかった。武器と言ってもこれしかないが。

そして窓の下に身をかがめた。

――あいつか―― 悠は真理子の顔を思い出した。


それから数分、静かな時間が流れた。

何故かわかる、もうこれ以上は攻撃はないと。

「これは警告だろうな」




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