5 卑下と鼓舞 ~ 果圓
【水島果圓 21歳(10月はじめの日曜)】
都会にあるささやかな紅葉を眺める。オレンジに色づいた葉っぱ一枚一枚に、もうすぐ役割を終えて散ってしまう儚さを感じながら、お疲れさまでしたと言いたくなる。
そんな詩的な感傷に浸れるのも、就職活動という荒波に飛び込む必要がなかったせいかもしれない。入学したときから、卒業後には家業の果樹園で仕事をすることを決めていた。仮にどこかに勤めるとしても、北海道内で働ける仕事が絶対だった。瑞穗との約束だ。就職活動でヒーヒー言っていた同級生を複雑な心境で見つめながらも、果圓は大学生活の後半を自由な気持ちで過ごしていた。卒業までおよそ半年。映画館シアターブルーへも上映ラインナップを見ると、残り五回くらいになりそうだ(月一はまあまあ多いか)。
鞄の中から財布を出してチケット売り場に近づくと、何だか慌ただしいスタッフの森山さんの声が聞こえてきた。
「本当に無くしちゃったの?もう一度、隅から隅まで確認してごらんよ」
「だめです。ないです。どこかに落としたんです」
「困ったわね」
十代前半と思しき少年が、チケット売り場のカウンターにリュックサックをひっくり返している。履いているジーンズのポケットも内側の布を引きずり出して、すっかり外気にさらされている。ポケットには何もありませんという証明だった。
「この映画を見るんでしょ?」と果圓は少年の左側からスッと割って入った。
「あらっ、こんにちわ」と顔なじみの森山さんに挨拶される。
「何歳?」
「は、はい。えっ、十四歳です」
「中学生だね。大学生と中学生を一枚ずつください」
「水島くん、平気なの?」と上目遣いで確認される。果圓は頷く。上映の開始時間が迫っている。二枚分のチケット料金を支払って、受け取った一枚を少年に手渡した。とにかく果圓は予告編からしっかりと座って見たいタイプなので、「急がないと始まるよ」と声をかけて足早にもぎり台へ向かった。
無愛想と思われても仕方ない。劇場内の照明は既に落とされていた。上映期間の最後の土曜日ということもあって、三分の二くらいは座席が埋まっていた。自由席なので果圓は自分の好む位置を、空いている席から鷹の目のように見つけて座った。慌てて着いてきた少年は果圓よりも後方の座席に座ったようだ。
エンドロールを最後までしっかりと見届けてから果圓は座席を立った。明るくなった劇場内でそれとなく後ろを見たけど、少年の姿は既になかった。果圓は座面と背もたれの間とかに忘れ物がないかチェックしてからロビーに出ると、「あの、ありがとうございました」と声をかけられた。少年が待っていた。
「面白かったね」とロビーの片隅で二人は映画の感想を話した。
「知り合いが出演しているんです。友達役の一人で台詞も少しだけでしたけど」
「女の子?」
「えっ、はいそうです」
「ふうん」と言って果圓は少年の顔をジロジロと見た。分かりやすいように彼は顔を赤らめた。
「財布を無くしてしまったのでしょ?」と果圓は一応聞いてみた。
「はい」と肩を落として小声で答えた。
「家は近いの?」と聞かれた少年は下を向いたまま、見るからに落ち込んだ様子で自宅のある市町村を告げた。
「そんなに遠くから来たの。帰りの電車賃もないんだよね?」
「はい」と力なく一層と声は小さくなってしまった。必要な料金を聞いてみると、自分の手持ちでは足りない金額だった。
「参ったなあ」と溜息交じりに言っていると、もぎり台のところから「おーい」と声を上げて姿勢よく近づいてくる支配人の姿が見えた。
「よかった、見つかって。森山さんから事情を聞いたよ」
平日の昼間から見に来ることもたまにあって、支配人の青林さんには名前は覚えてもらっている。週に二回も見に来たときには、ちゃんと大学に通っているの、と心配されたくらいだ。
「そういや、名前をまだ聞いていなかったね」
「矢野泰志です」と少年は言った。
帰りの電車賃が足りないことを伝えると、「あの辺はまた乗り換えがスムーズにいかないと駅で待たされるからね。乗車時刻は調べてある?」そう言われて果圓はハッとした。矢野少年の顔を見ると明らかに何かを言いたそうだった。
「もしかして、もう乗る時間が過ぎちゃった」
「あと十分です」
「どうして言ってくれなかったの?」
「それはさすがに間に合いそうにないね、ボルトでも無理だ」と腕時計を見ながら青林支配人は答えた。お金がないのだから言うに言えなかったのだ。今度は果圓が黙ってしまう方になった。
「ほら、二人ともそんな顔しない。電車代は私が持つから、矢野くんはひとまず自宅に帰るのが遅くなるのを連絡したらどうかな、事務所の電話を使っていいから。水島くんもまだ平気?大丈夫なら電車の時間を調べるのを手伝ってくれるかな」
三人はスタッフオンリーの扉を開いて、映画館の事務所へ移動した。そこに入るのは果圓も初めてだ。部屋の壁には昔のポスターとかチラシとかがたくさん貼ってあり、机の上にも様々なグッズとか景品みたいなものが置いてあった。
「欲しいものがあれば持って帰っていいよ」と青林さんが言うので、「これは?」と聞くと「あぁ、それはちょっと」。
「じゃ、これは」と聞くと、「いやぁ、それもちょっとなあ」。
「これならいいよ」と渡されたのはイチゴの形のキーホルダーだった。微妙だと思いつつ「ありがとうございます」と引きつった笑顔で果圓はもらった(たぶん、映画とは関係ないものだ)。矢野少年は電話を促されたものの、なかなか受話器を取り上げようとしなかった。
「どうしたの?」と青林支配人が優しく声をかける。果圓は事務所のパソコンを借りて、電車の時刻を調べていた。
「親には内緒で来ました。だから、その何て話せばいいのか」
「そうかい、けど何も言わずに遅く帰っても怒られるでしょ」
「たぶん」
「二者択一でどっちを選んでも怒られるなら、早く怒られる方を選んだらいいよ」
「そうなんですか」と果圓がパソコンモニターの向こう側にいる二人に向かって声をかけた。
「怒られるだけじゃなくて、嫌だなと思う方を先にしておくべきだね。歳を取ってからその癖が身に付いていると、立ち直りも早くなるようになるから」
果圓は思わず、「青林さんでもまだ怒られることがあるのですか?」と聞いていた。
「もちろんあるさ。映画館の支配人の仕事の半分はお客様からのお叱りなんだから」と苦笑いしながら話していて、映画が見放題の楽しそうな仕事ばかりではないのだと思った。
「さぁさぁ、矢野くんは家に電話だよ。気まずくなったら私に変わっていいから」
矢野少年は頑張って親と電話で話していたけれど、最後のダメ押しで青林さんに登場してもらって無事に理解を得られたようだった。お金の件は果圓が支払ったチケット代も含めて青林さんが立て替えてくれた。
「交通費と、途中でジュースなり菓子パンなり買うとして、これくらいあればいいでしょう」と矢野少年に渡していた。借りたお金はいつになるかは分からないけど、必ず返しに来ますと彼は言った。果圓はチケット代分を渡されながら、「僕の分はよかったのに」と言うと「矢野くんが返す相手は私だけの方が良いでしょう。水島くんは確か大学を卒業したら実家に帰るのではなかったかな?」
よく覚えている、接客業をしていると、お客さんとの何気ない会話もちゃんと記憶できるのだろうか。矢野少年の視線を感じる。
「実家、北海道なんだ」
「北海道。僕よりも遠いですね」
「水島くんの家は、北海道で、何だったっけ?」
「果樹園です」
「そうそう」と青林支配人は矢野少年に目を向けるも、彼にはあまり興味をひく話題ではなかったようだ。果物が食べ放題だよ、とさらに追い込むも反応薄であった。
そんな会話をしながらも、果圓は矢野少年の帰宅電車の時刻表をまとめて勝手にプリントアウトした。ちょうど休憩中だったのか、森山さんが紙袋を持って事務所に入ってきた。中を覗くと各地の名産菓子が入っていた。「休憩室にあった残り物ばかりだけど、よかったら電車の中ででも食べてね」と矢野少年に手渡した。なんと北海道の銘菓も入っていた。
「じゃ、駅まで矢野くんを送りますね」
「水島くん、よろしくね」
改めて大学生と中学生の二人になると、なかなか共通の話題が見つからない。
「あの、大学を卒業したら北海道の実家に帰って、その、果樹園で働くのですか?」と矢野少年が聞いてきた。
「そうだよ。大学でも農業の勉強をしているし、ずっとそのつもりでいたからね」
「ずっとって、中学生のときから?」
「小六のときからぼんやりとね」
「すごいですね、小学生のときから将来を決めていたなんて」
「別にすごくないよ。たまたま家が自営農家で、それに興味が持てただけだから。就活の辛さを味わっていない分、社会人になってから壁にぶつかるかもしれないしさ。矢野くんは来年が高校受験だから色々と考えてしまう時期だね」
「えぇ、まあ」
「何かやりたいことがあるの?」と、彼の表情を見ながら聞いてみた。しかし、すぐに返事はなかった。初対面の人間にはなかなか話しづらいか。
「よく好きなことを仕事にしたらいいと聞くかもしれないけれど、ちょっとどうかと思うところもある。正論のように思うけど、絶対に正しいかと言うと疑問に感じる」と言って、どういうことですか?という顔をされた。
「自分のことで言うならば、農業が好きだから果樹園で働くわけではない。子どもながらに面白いと感じるところがあった。農業って去年とまったく同じことをしても、決して同じようには作物は育たない。気候とか周りの環境のちょっとした変化で、すごく影響を受けてしまう。それを仕事にするのはとても難しいと今は思っているけれど、その働き方は自分に向いていそうだと思っていてね」
「じゃ、好きなことは別にあるんですか?」
「そりゃあるよ。例えば、書道。映画を見るのももちろん好き。あとは灯台とハヤシライスとオレンジ色が好き。ほかには」
「もう、いいです」と中学生に話しを遮られた。
「矢野くんは映画を見るのが好きなの?」
「普通だと思います。今日は特別です」
「そうだったね。さっきの映画、エンドロールを最後までしっかり見てないでしょ」
「友達の名前が出たところを見て出てしまいました」
「エンドロールを見ていたら、たくさんの人の名前とその仕事がズラッと流れるよね」
「はい」
「漢字を見てだいたい分かる仕事もあれば、よく分からない仕事もある。そういうことを調べるのも面白いと思うよ」
「面白い、ですか」
「好きなことを仕事にしようと思ったら、まずは好きなことを探したり決めなくてはならないでしょ。でも好きになるって、いきなり百パーセントで好きになるわけではないじゃない。最初は面倒くさいと思っていた習い事でも、続けていくうちに何となく楽しくなるみたいな感じ」
「それなら分かります」
「例えば、映画を一つ制作するのに、どんな人がどんな役割で仕事をしているのかを調べてみるのも面白いかもね」
「水島さんは映画業界のことが詳しいのですか?」
「いや、だいたい本や雑誌の受け売り。好きな女の子が役者をやっていて、別に同じ役者の道ではなくても映画の世界にある他の仕事に興味が持てれば、いつか一緒に働けるかもしれない。そんな理由でやりたい職業を決めるのも悪くないよ」
「そういうのって動機が不純って言うのでは?」
「いいのいいの。就活していた周りの友人を見ていると、履歴書とか思ってもいないことを真剣に考えいます風にみんな必死になって書いていたよ。そんな志望動機なんて本心じゃないだろうって聞いたら、就活雑誌に書いてあったってさ。おれの場合は家業を継ぐことを君くらいの頃からずっと決めていたから、あんまり偉そうなことは言えないけど。それにまだ社会人になって働いているわけでもないし。ただ、働くことは卑下と鼓舞の連続だろうと、もう働き始めている自分の彼女を見ていて思うよ」
「髭と瘤?」
「そのヒゲとコブじゃないよ。生きているとつい他人と比べてしまって、自分を卑下することってまぁあるじゃない。でもそんな時こそ踏ん張って踏みとどまって自分を鼓舞しなくちゃね、って話だよ」と年長者としてのもっともらしい発言をしてみたけれど、実際のところは唐突に口をついて出た言葉だった。矢野少年に髭と瘤と間違われて、ダジャレみたいになってしまったけど。
本当のことを言うと、こんなタイミングで卑下を使うことができて自分でも驚いていた。リストアップしておきながら、卑下なんてどんな会話で使うのやらとずっと思っていたのだ。頭の中で『眠りのノート』のページを思い浮かべた。
卑怯
卑近
卑下
卑屈
卑語
卑劣
卑猥
卑金属
卑弥呼
改札口で矢野少年を見送った。
「最寄り駅に到着したら、青林さんに電話をしてね」
脳内では常にふわふわと色々な漢字が浮かんでいて、外からの刺激でパッと摘ままれることがある。自分の力で押し出すというよりは、釣り針に運悪く引っ掛かってしまった魚のように。人と話しをしていると、考えてもみなかった言葉がふいに出てくることがある。良い意味でも悪い意味でも。なんでそんな単語がそのタイミングで出てきてしまったのか。言葉は本当に不思議だ。目に入る言葉、手で書く言葉、口から発する言葉、それらが同じ言葉でも異なる印象を受けたり、イメージを与えたりする。例え、ネガティブな言葉であっても、ネガティブな言葉だからこそ活かせる場面もあるのだ。




