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37 果圓の5月3日(火) 完

水島果圓 34歳

 晩御飯には美味しいと評判の寿司屋を予約していると聞いているのに、ショッピングセンターに寄らされて夜食用の酒やつまみを買い込んでいる。


「お寿司で奮発するから、夜食はリーズナブルに済ませるわよ」と真心愛さんは息巻いているが、見るからに二人分の量ではない。


「余れば明日の電車の中で食べますから」と大原さんが言った。果穂は真心愛さんについて歩いていたので、私は大原さんと店内をゆっくり回っていた。


「勧めてもらったマンガ読んでいますよ。ネットカフェに行ってですけど」


「マンガ?」


「ジョジョですよ。やっと東方仗助編です。まだまだ先は長いです」


 確かに東京旅行の最後の晩に電話で話した。全体として何を話したのかはあまり覚えていなかった。ジョジョの話題で上がってくるのは、好きなキャラクターや最強のスタンドはどれかなどだ。推しの登場人物となると男性と女性では捉え方が違ってくるので面白い。しかし、大原さんが話してきたのは「眠っているときだけ発動するんです」という本人が欲しがっているスタンドだった。


「日常生活で誰かと戦うなんて考えにくいじゃないですか。それよりは身を守ってくれる方が絶対に良いです。安心安全が一番です」


「それは通り魔から身を守る的なこと?」


「それも大事ですけど、もっと無防備なときですよ。そんなの眠っているときに決まっているじゃないですか。寝ているときに自分に変わって起きて見張ってくれているスタンドがいたら安心この上なしです」


「見張るって、何から?」


「もう、そんなのムカデに決まっているじゃないですか」


「百足」


「水島さん、経験ありませんか?寝ているときにムカデに嚙まれたこと」と問われて間一髪で嚙まれたことはないと告げると、「それは幸運なことです。あれはもう本当に最悪です。で、だいたいその夜は逃げられてしまうから、もう落ち着いて寝られやしません」


「その気持ちは分かる」


「生き物は眠らなくては生きていけません。眠っている私をガードしてくれる優秀なSPが欲しいなあとマンガを読むたびに思うんです」



 主治医からも母親からも助言をもらって日記を付けている(紙ではなくアプリで)。毎月一回の定期診察では異状が見つからず、体や脳の状態は至って問題ない。そもそも、私にとっての異状な結果とはいったい何なのだろうと思う。その日に起きたことを書くだけではなく、不自然や違和感を覚えたことを書き留めるようにしている。西洋医学では未だに解明されていない病気の原因を突き止めるかのように。


 たびたび先生に相談しているのは記憶の不確かさについてである。記憶喪失とか思い出せないといった類いの話ではない。記憶の引き出しの中身が、共有しているはずの誰かのそれと合わないのだ。家族や友人と話していて会話がかみ合わない。自分の記憶と話し相手の記憶が食い違う。ただそれで不都合が生じるほどではなく、どっちかの思い違いだね、程度の話題なので日常生活に支障が出るほどではない。だから、そのまま深追いすることなく会話は流れていく。相手によってはモヤモヤが強く残っている人もいるかもしれない。


 蜂谷先生がよく言う、「迷ったら筆に聞け」という教えもどういう訳か筆の声が聞こえにくくなってきたらしい。迷いが消化不良で残っていると正直に相談すると、「じゃ、もう頭で考えても仕方ないな。写経でもしろ」と言われた。


「そんな投げやりな。もう子供の頃みたいに仏間で生活しているわけじゃないし」


「おい、コラ。写経をバカにするんじゃないぞ。別に本物のお経を模写しなくたっていい。今まで色々と展覧会に行って図録を買ってきているだろ。その中から気に入った偉人の書を書き写せばいい」


「それならやったことありますよ」


「足りない。もっともっと手を動かし続けろ。何かを見つけようとしたり、気付こうとしたりしなくていい。とにかく書き写すんだ」


「とにかく書き写す」


「そうだ、余計なことは考えるな。見えているものに集中するんだ」


目に見えるもの。手で触れられるもの。


 夕飯のおかずを調達して家に帰る車の中、ナビとスマートフォンをBluetoothで連携させて好きな音楽を果穂が流し始める。もう機械の操作に一分の迷いもない。我が子ながらその器用さには頭が下がる。進行方向の西日が眩しくなったのでサングラスをかけた。


「一つ聞いていいかな」


「なに?」


「果穂が取っておいて、と言ったお菓子の包装紙はまだ捨てたらまずいのかな」


「それってパパが自分で注文したやつだよね。別にかさばるものじゃないし、ジャマではないでしょ」


「邪魔ではないけど、取っておく理由が分からないままだと。紙袋なら使い道もあるけど」


「いいよ、それなら、わたしが預かっておく。帰ったらちょうだい」


 とにかく捨てるな、いつか必要になる日が来るかもしれないからと果穂が言う。詳しいことは教えてくれずに取っておけの一点張り。しかし、娘が真剣な眼差しで話すもんだから無下にもできずに、クリアファイルに入れて本棚の空いているすき間に差し込んでいる。


「なんか、あんまりサングラス似合ってないね」と果穂がボソリと言った。


「そうかな、見慣れていないだけだよ」と言いながら自分でも少し思ってはいたけど、時間が立てば解決する問題だ、きっと。


 大きな病気や怪我を境にして(それが意識不明の重体であるような)、人格が変わってしまう場合があっても不思議ではないとは思う。例え数日や数時間のことでも、意識を失っているときに自分の身に何が起きているのか、起こったのかを知る術はない。眠っているときに見守ってくれている、もう一人の自分でもいればいいのに。

 昔の自分と今の自分を隔てる境目を認識する瞬間はたまにある。ただし、赤と緑、白と黒みたいな面積でくっきりと分けられているものではない。とても曖昧で羊雲が浮かぶ空のようだ。


 最近で言えば、おみくじを買うことがめっきり少なくなった。おみくじ帳を開いて、なぜそんなことを初めたのか、その記憶はある(事実として正しい思い出かどうかは検証できないが)。しかし、昔のページを見ていると不思議に思う。確かに自分で書いた文字だった。それでも他人事のように読んでしまう。随分と細かいところまで調べて意見を書いていると感心してしまう。

 今ではこんなに書けないと思う。事故のあとで取り組む気持ちが知らないうちに薄らいでしまったのかもしれない。まるで研究論文のようなページを眺めながら、ペンを持った手がなかなか動かなかった。仕事ではない、単なる趣味なのだから止めたくなればいつでも止めればいい。でも趣味だからこそ、やる気を失ったその理由をもっと知るべきではないのか。


「もしもし」


 もしもし?助手席をチラ見すると果穂が私のスマートフォンで誰かと話している。誰?と小声で聞くと、電話では話し相手に相槌を打ちながら、口パクで「おばあちゃん」と表現した。器用なもんだ、腹話術師さながらだ。


「うん、まだ帰り道だから買えるよ。分かった、いつものゴマドレッシングだね、はい。バイバイ」


「おばあちゃん、何だって?」


「この前買ったゴマドレッシングが高い割に食べたら好みの味じゃないって、おじいちゃんが捨てちゃったんだって。だから、いつも使ってるのを買ってきほしいって」


「なにも捨てることなかろうに、もったいないね」


 私はホテルで航空券をキャンセルしたことを思い出した。嫌な夢を見て、起き抜けにタロット占いをすると悪い結果が出て、それだけを根拠に乗るのを止めてしまったのだ。

 後に調べたら、その飛行機に異常はなく予定通りに運行されていた。対して、乗り換えた新幹線で私は妙な事故に遭遇した。つまりは乗り物の問題ではなかったと言える。しかしながら、北海道に帰らないわけにはいかなかった。


「おじいちゃんは味にうるさいもんね」と果穂が言った。君も好き嫌いが激しいじゃないか、と言いそうになってやめた。彼女は好きなアイドルの歌を流しながら、一緒に口ずさんでいる。大原さんからもらった写楽のポストカードセットを眺めながら。

 果穂がすっかり大人びてきた気がする。退院して帰ってきてから特にそう思う。女の子の成長は本当に早いのだ。ついこの間までは子猫のように(じゃ)れてきていたのに。


 県道沿いのドラッグストアに入って、()()()()ゴマドレッシングを買った。意識的であれ、間違いであれ、捨てたものをこうして簡単に取り戻せるなら、捨てることに罪悪感も後悔もない。


 私は何かとても大切だったものを捨ててしまったのだろうか。瑞穗と話していると、彼女の言動や表情を見ているとそう思うことがある。私にとって大事なものだったのか、彼女にとって貴重なものだったのか、二人にとって尊いものだったのか。事故のせいで無くしてしまったのか、それとも私自身の意志で捨て去ってしまったのか、今はもう分からない。


 隣に座る娘を見る。自宅で待つ妻の姿を想像する。両親と彼らが守ってきた果樹園を思う。生活や仕事ができる自分がいる。これら以上に大切なものなどあるのか。大切なものたちが待つ場所まではもうすぐだ。


「あっ、」と果穂が声を出す。


「どうした?」


「うん、いや、何でもない」


「平気か」


「うん、ううん、何かメモるものがあれば」


「書くものかい、ダッシュボードの中にペンは入ってるでしょ。紙は、あぁ、財布の中のレシートの裏とかでよければ」


「ちょっと借りるね」と言うが早いか、娘は手を伸ばした。揺れる車内で小さい裏紙にスケッチをしている。


「ありがとう、助かった」


「なんか分からないけど、間に合ってよかったよ。閃道録が水の泡になる前で」


「戦闘力?別に誰とも戦ってないよ」


「そのセントウリョクじゃないよ。閃きと道のりを記録するってこと。アイデアとじっくりと考えていることを忘れないようにするって意味かな」


「そんな言葉があるんだね」


「パパの造語です」


「な〜んだ」と言いながら、果穂はレシートの裏にその言葉を書いていた。これであってる?と見せられた文字は、閃きが閂の漢字になっていた。

 

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