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30 瑞穗の1月21日(金)

水島瑞穂(34歳)

 病室に入ると果圓の目は閉じたままだったので、また容態が悪くなってしまったのかと思ったけど、本当にただ眠っているだけだった。無理やり起こすわけにもいかず、午前中の面会時間いっぱいまでベッドの隣で座っておくしかなかった。


 正午になり病院をいったん出て、徒歩十分ほどのファミレスに昼食を食べに行った。かにクリームコロッケのランチセット。家に電話して、養父母と話した。果穂は一見すると落ち着いていて、学校でも普段通りにしているということだった。


 病室に戻ると、ベッドの周りを医者と看護師が囲んでいた。覗き込んだり、点滴の調整をしていたり、ぞわっと体中に鳥肌が立った。しかし、わたしに気付いた医者が笑顔で手招きをしてくれた。皆と同じように覗き込むと、果圓と目が合った。確かに、彼はわたしの目を見ていた。そして、小さく顎が動いて頷いた。


 本人はまだ声を出せないけど、話しは通じた。少しずつ力が入り始めた手で、イエス・ノーの意思表示をしていた。


「はい、いいえで答えられる問いかけをしてあげてください」


 聞きたいことの方が多くて、なかなか○か×かで答えられる質問が出てこない。六日ぶりに視線を合わせたのに、業務連絡みたいなことばかりを喋っていた。

 昨日、蜂谷さんが果圓に渡したい書を持って来てくれたこと。もう少ししたら、乙樹さんがここに来てくれること。果穂はいつも通りに学校に通っていること。果樹園の仕事はお義父さんとお義母さんがやってくれていること。果圓が入院してしまったことは、啓一叔父さんと青林さんにも伝えたこと。

 そんな思いつくままにゆっくりと話した。言い終えて、果穂のことを一番に話すべきだったと小さく反省した。じっと耳を傾けながら、果圓は頷いたり、手で分かったという合図を出してくれた。


 病院から連絡が入ったのか、先日の刑事二人もやって来た。テレビドラマで見るような、意識が戻ったらひどい取り調べをするようなら、病室から追い出してやろうと思ったが取り越し苦労だった。

 思いのほか紳士的で、軽い挨拶程度なテンションのまま、数分で引き上げて行った。エレベーターまで見送ると、体が動くようになったら手荷物を確認して、スマートフォンのほかに紛失しているものがあれば教えてほしいと言われた。


 扉を開くと、果圓は腕を天井に向けて上げたり下げたり、足も布団の中でもぞもぞと動かしていた。まるで、金縛りから早く抜け出そうとしているみたいに。


 一時間後に乙樹さんが到着した。果圓は介助されてなら、ようやく上半身を起こせられるくらいには状態が良くなった。言葉を忘れてしまったがごとくに声は出せないままだったけど、震える手で簡単な文字で筆談はできるようになった。


〔温お茶〕


「緑茶でいい?」


〔○〕


のような具合だ。


 久しぶりに顔を合わせる姉弟は、不自由な形式を感じさせないでコミュニケーションしていた。乙樹さんはキャリーバッグの中から、分厚い書籍を取りだした。


「あんたが好きな書道家の展覧会が京都市内でやっているから、図録を買ってきたわよ」


〔サンキュ〕


やっと果圓の表情にも、笑顔が見られるようになった。


〔カバン〕


 カバンの中身を見たいという。刑事さんにも頼まれていた。移動式テーブルをベッドの真ん中あたりにスライドさせて、中身を一つずつ取り出す。着替えとか柔らかめのものは掛け布団の上に直置きした。

 わたしは刑事さん二人と前もって一緒に確認している。念のために。しかし、本人しか分からないこともあるだろう。果圓の表情を見ると、電車の中で寝過ごして見慣れない駅に着いてしまった、とキョロキョロしている人のようだった。


 昨晩は一人焼き肉、今夜は二人焼き肉になってしまった。乙樹さんがガッツリしたものが食べたいというものだから、思わず近くに焼き肉屋がありますよと言ってしまった。昨日も行ったことを話したけど、二日連続で焼き肉なんて全然アリよ、と言うものだから流されて来てしまった。昨日とは違うものを頼もう。


「しばらくぶりに会ったけど、お洒落にも気を配るようになっていてびっくりしたわ」と乙樹さんが何気なく言った。お洒落?ずっと隣りにいたけど、そんな会話をしていただろうか?わたしの反応が薄いと知るや、乙樹さんは補足のコメントを入れてくれた。


「いや、私の靴を褒めてくれて。コートともよく合っているね、だって。他人のファッションのことに触れるなんて、記憶している限りなかったなと思ってね」


 わたしは果圓から『眠りのノート』のことは家族には話していないと聞いていた。息子の異変に感づいていたお義母さんは啓一叔父さんから聞いているだろうけど、自分からは告白したことはないようだった。だから、わたしはノートについての話しを触れたくても触れられなかった。


 乙樹さんが感じたという果圓の変化。わたしが果圓と話していて「おやっ?」と思ったことは、筆談という不自由な状態だったから聞かれなかっただけかと考えていた。絶対に気にしているはずなのに、どうして確認してこなかったのだろう。そんなにわたしのことを信用しているのか。平気な顔をして嘘をつく準備はできていたのに。


「ノートはすべて捨ててくれた?」

「えぇ、こっそり燃やしたわよ。あっという間に灰になった」


 大嘘だ。燃やしてなんかいない。わたしの古いレシピを挟んでいるクリアファイルブックに隠してある。こんなペテンをかます用意をしていたのに、すっかり肩透かしにあった。聞かれないなら今は黙っておくだけだ。果圓にも、乙樹さんにも、果穂にも。


「珍しく悩んでいるようだな」と妄想の元国が再び話しかけてくる。


「悩んでいるというか、戸惑っている方が近いかな」


 妄想なのだから、どちらの会話もわたしがしている。わたしが質問して、わたしが返答する。きっと元国ならこんな風に言ってくれるはずだ。

「俺には果圓の昔と今の変わり様が分からないが、今の果圓がそれで良さそうならいいのではないか」という、パターンAの返答。

「イムラが一番大切にしたいものは何だ?一番だぞ。一番を守るためには二番や三番は諦めたり、捨てたりしなくちゃならない時もある。それをよく考えることだな」という、パターンBの返答。


 わたしの一番。自分でこしらえた問いなのにわたしは答えられない。

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