3 本当の眠りの世界 ~ 瑞穗 1日目
井村瑞穗 20歳(3月20日と21日)①
こんな機会でもなければ、東京に行くことなどまだずっと先だったと思う。瑞穗はあと二週間もしないうちに果圓より一足先に社会人になる。先日、二年間通っていた専門学校を卒業して、四月からは北海道を中心に店舗展開しているベーカリーチェーン店への就職が決まっていた。そんな時期なのに、なんでこの男は忙しくなるのが分かっている女性に対して、告白なんてしてくるのだろうか。えっ、今?告白されたときにまず思った感想だ。
果圓とは中学からの仲だ。同じクラスになったこともある。高校生になると二人で遊びに出かけたこともある(お互いに親密なデートの認識があったかどうかはわからない)。周りでも誰それが付き合っているという話題が駆け回っていた。正直なところ交際に発展してもおかしくはなかったと思う。でも、そうはならなかった。
高校を卒業して果圓は東京の大学へ進み、瑞穗は北海道に残って専門学校に進学した。仮に付き合っていたならば、その一時的な別れはつらかったかもしれない。友達のままだったから、あっさりした気持ちでお互い新生活に歩み出せた。あぁ、映画みたいに幼馴染みの距離がグッと縮まることなんてないんだな。瑞穗の彼への気持ちは飛行機雲のように細く長く、そして徐々に薄くなっていった。
それが先々月の成人式の翌日に、急に付き合ってほしいと言ってくるなど予想外も甚だしい。彼にしてみれば大学二年から三年に進級するだけのタイミングだろうけど、瑞穗にとってみたら社会人という未知の領域へ足を踏み入れる人生のターニングポイントの時期なのだ。即答はできず、真剣に断ってやろうかとも悩んだ。
返事を伝えた日、受け入れる気持ちを固めていたのに、ゴメンナサイのカンペを持つもう一人の自分の姿が見え隠れしていた。けれども結局、その気持ちは一時のイライラから来ていることを悟って、二人は彼氏彼女になった。冬休みを終えた果圓を新千歳空港駅まで見送りに行った帰り道に、手帳を広げながら東京に行くとしたらこの辺りしかないだろうと印しを付けていたのが、今日だ。
東京には行ってみたいお店がいくつもある。あっちのケーキが食べたい、そっちのパンも食べたい。趣味を仕事にするのだから、これからはただただ美味しい美味しいと言ってばかりもいられない。東京初上陸で食べ物のことを想像すると気持ちが浮き足立ってしまう現実はあるけど、もう一つの現実が身を引き締める。それは彼氏の一人暮らしの部屋に行くという現実だ。瑞穗は果圓の実家の部屋には入ったことはある。しかし、その時はまだ付き合ってはいなかった。
「果圓が彼氏かぁ。彼氏が果圓かぁ」と思う。付き合い始めてはいるけれど、会うのは二か月半ぶりだった。この間、スーパーマーケットで果圓のお母さんに出くわした。
「話しは果圓から聞きました。あの通り間の悪いところのある息子ですが、末永く仲良くしてやってください」と卵売り場の前でお願いされた。
こちらこそ、水島家の皆さんには十三歳の頃から良くして貰っている。果樹園の規格外品の果物たちをたくさん頂いてきた(ちゃんとパンやお菓子にして返した)。瑞穗はお母さんに対して、「はい、今まで以上に仲良くします」とカゴに牛乳とキウイフルーツと食パンと蜂蜜が入った状態で深々とお辞儀した。
そして、あっという間にシートベルト着用サインが再び点灯して、着陸態勢に入りますというアナウンスが機内に流れた。羽田空港の到着ロビーでは果圓が待っていてくれた。初めて見る黄色いダウンベストを着ていた。
「長旅、お疲れ様でした」
「飛行機はあっという間だったわ」
「どこかで夕飯を食べてから家に帰ろうか」
「お店がたくさんあるから目移りするわね」とできる限りの平常心を保とうとした。平常心を意識している時点で、既に自然体とは言えないと自分にツッコミを入れた。
初めて足を踏み入れた果圓のアパートの部屋は、書道の墨の匂いで満ちていた。彼の実家の仏間の匂いと似ていた。仏間が彼の部屋だった。その部屋は煙は立っていないのに、いつも微かに線香の香りが漂っていた。目には見えない線香の残り香が、壁や天井のそこかしこにしみ込んでいるみたいだった。たぶん気のせいにしかすぎないだろうけど。
抱きしめ合った余韻に浸ることなく、慣れない場所での疲労にぐっすりと眠っていると、ふと寒さを感じて目が覚めた。東京の三月の夜は、思っていたよりも冷え込んでいた。そろそろ桜の開花宣言が出てもいい頃なのに。
隣に目を向けようとしたら、なぜか体が固まってしまっていて動かせない。どうしたのだろう、目が覚めていると思ったのは嘘で、これは夢の中なのだろうか。気疲れが過ぎていたのかもしれない。それっ、ヨイショ、と寝返りを打とうとしたけど、やっぱり体が動かない。
これってもしや金縛り?うわぁ、初めての体験だ。この部屋に何か棲み着いているのじゃなかろうか。そう思うと急に見えない部屋の隅から、何者かがジッとこっちを見ているような気がしてきた。
何でもいいから声を出して、果圓を起こそうとするもダメだった。声が出ない、どんな言葉も現実的な音にならなかった。辛うじて細く開くことができそうな瞼の隙間から、眼球を動かせる範囲で動かす。隣にいるはずの果圓の姿はないようだ。寄り添う相手がいなくなっていたのだから寒さを感じるわけだ。トイレにでも行っているのだろうか。耳を澄ませて物音が聞こえるかどうか集中する。
カサカサと何かが擦れるような音が、足元の先から聞こえていた。部屋の配置を思い出し、そこには彼の平机があるはずだった。都会に特有の夜の明るさが近くの窓から入り込んでいて、徐々に視野が広がってきた。体はまったく動かないままだけど、人の気配を感じることはできた。たぶんデスクスタンドの灯りが付いている。
「果圓、そんな薄暗いところで何をしているの?」と、声には出せないけど頭の中で問いかけてみた。もちろん伝わるなんて思っていなかった。でも、数秒ののち、「なんだ?」という声が聞こえてきた。
ただ、耳から聞こえたのではなく、直に脳内で響いた気がした。その声質は果圓のものであったけど、喋り方は全然ちがった。その「なんだ?」は瑞穂の問いかけに答えたというよりは、虫が徘徊していたり、屋外から聞こえてくる物音や気配に反応しているだけな感じだった。
声の主は何かしらの結論に至ったらしく、「まさかな」と言った。空耳を疑うことなく男は机に向き直り、握ったペンに再び力を込めて何かを書き始めた、という映像が浮かんだ。長い文章ではない。ただの一文字を焦らずに、噛みしめるように。瑞穗はもう一度、何をしているのか尋ねようとしたけど、思いを最後まで言葉につなげられなかった。彼女の瞼は再び完全に閉じて、本当の眠りの世界に戻っていった。
味噌汁の香りがする。部屋の中も既に明るい。リアルな朝だ。隣を見ると(今度はちゃんと首も回せた)果圓の姿はそこにはなかったけど、部屋の中を動き回っている姿は目に入ってきた。ぼうっとする寝起きの状態だけど、真夜中の体験は記憶の中に確かに残っていた。金縛りにあって声も出せずに、けれども果圓の声によく似た声が聞こえたこととかも。なんだか良い夢を見ていたっぽいのだけど、内容は全く思い出せないときとは違った。
瑞穂の起床に気が付いた果圓が、「おはよう」と声をかけてきた。それは学生時代に教室で声をかけられた、毎朝の「おはよう」とはちがう色味を帯びていた。同じ平仮名四文字なのに、今日のは親密度合いが深かった。深夜の声がよみがえる。やはり、あれは果圓であって果圓でなかった。
「おはよう」と返して、ベッドから出ようと掛け布団をはぐと、部屋の中の冷気がいっきに襲って来た。「さっむ」と言って、再び掛け布団を羽織る。
「ごめんね、暖房が効くまでもう少しかかる」と言った彼は、既に私服に着替えていて、部屋の中なのにネックウォーマーをつけていた。だいたい二分くらい温まったところで意を決して、布団から飛び出してつま先歩きで旅行鞄のところまで歩いた。新しい靴下を取り出して履いた。
「朝ご飯、食べるでしょ?」
「食べるよ」
「本当に申し訳ないね、せっかく東京まで来てくれているのに。どうしても今日の早番だけ代わりの人が見つからなくて」
「そんなに恐縮しないでいいよ」
「一時には合流できると思う。お腹空いちゃっていたら先にお昼を食べてて」
「あちこちで食べ歩きしてたら、お昼いらないかも」
「そうかもね」
テキパキと台所で朝食の準備をしている彼氏の様子を眺めるのは、瑞穂にとっては新鮮な光景だった。男子の生活力を間近に見られて、一人暮らしをするとこんな風に変わるのだと実感した。瑞穗は彼氏がいつの間にか用意してくれていたらしい、テーブルの上に置いてあった上品な湯気を立てている白湯をそっと飲む。温かい。
「ねぇ、昨日の、あんな真夜中に机に向かって何をしていたの?」
それは瑞穂にとって、「今日の晩ご飯は何にする?」くらいの軽い気持ちの問いかけだった。実際に自分が目にしたこと(正確には目撃したわけではないけれど)を、普通に確認しておきたかっただけだった。しかし、その質問は果圓にとっては寝耳に水のようであった。絶対に解除できないと高をくくっていたスマートフォンの画面ロックのパスワードを、いとも簡単に開けられてしまったような唖然とした表情をしていた。
「見たの?」と言って、「いや、見れたの?」とすぐに言い直した。果圓がラ抜き言葉を思わず使ってしまうなんて珍しいことだった。




