29 瑞穗の1月20日(木)
水島瑞穂(34歳)
自宅に電話をかけると果穂が出た。お義父さんとお義母さんは外で作業をしていた。呼んでこようかと言われたが、娘の声もいつも通りだったので平気だよと答えた。ちゃんと時間が流れていて安心した。
昨日、医師と警察からそれぞれの事情を説明されて、わたしは心当たりのある人たちに連絡をした。そんなに多くはない。義姉の乙樹さんの他に、果圓が東京で会ったであろう啓一叔父さんと映画館の青林さん。折に触れて果圓が頼りにしている書道教室の蜂谷さん。啓一叔父さんと蜂谷さんが『眠りのノート』のことを知っているのは聞いていた。青林さんに果圓がその存在を話しているのかは不明だ。もしかしたら、他にも会っている人がいるかもしれないけど、わたしには連絡先は分からなかった(果圓のスマートフォンは紛失してしまっていた)。
蜂谷さんからの返事も速かった。ホテルの部屋で朝食中に電話が鳴った。家族以外は面会ができないことを伝えても、渡しておきたいものがあるから、と言って聞かなかった。個展の準備で札幌に滞在中だけど、少し息抜きがしたいところだからちょうど良いとも言った。札幌から特急に乗っても三時間以上もかかるのに、ちょうど良いなんて言えませんよ。駅の近くのカフェで待ち合わせることにした。
「お忙しいのに、こんなに早くお見舞いに来ていただいてありがとうございます」
「全然そんなの気にしないでいい。電話で話した通りのことだ」と言って、忘れないうちに渡しておこうと鞄の中から大きめの封筒を取り出した。中から出てきたのは、八枚の半紙に書かれた書だった。
「月曜のことか、果圓からメールが来てな、八文字分の書を頼まれたんだ」と一枚ずつめくってみた。わたしにも届いた漢字だ。しかし、熟語として書かれたものには読み方の分からない漢字もあった。
「あっ、これって」と言って、わたしは果圓のカバンの中から手持ち無沙汰の時用に勝手に拝借した文庫本を取りだした。
「しおりの挟んであるところはまだ最初の方でしたが」と言い添えて、蜂谷さんに手渡した。
「新品じゃないか。なんだ、『月と六ペンス』まだ読んだことなかったのかい」とココにはいない果圓に話しかけているようだ。
「わたしはずいぶん前に図書館で借りて読みました」と一応フォローしといた。
「瑞穗さんはたしかアート好きだったもんな」、そして蜂谷さんは果圓が丸記しを付けていた漢字を見て、きっと例のノートに書かれてあったのだろうなとボソリと言った。
わたしは見ているのか見ていないのか自分でも分からないスピードで八枚の半紙をめくっていた。「あの、恥ずかしながらコレは何て読むんですか?」と聞いてみた。
「これは貝独楽だよ」
あの昔の子ども達が当てっこして遊んでいたコマのおもちゃだ。ついでに分からないものを全部聞いてみた。
「須恵器、蟠踞、日御碕灯台だ」
「須恵器って何ですか」
「須恵器は弥生時代かそのあたりの土器だ」
「蟠踞は?」
「蟠踞はあるところに根をしっかりと張って動かない様子だ」
「日御碕灯台はどちらの?」
「島根県にある灯台だ」
「相変わらず色んなことを知っているのですね」
「まあな」と謙遜する素振りもなく言った。
せっかくだから函館市街地で一泊して行くよ、と早々に立ち去ろうとしたので、目が覚めたら彼に伝えておくことはありますかと聞いてみた。
「俺の個展を見に来い」
「はい」
「それと、今年の道展に出品しろ」
「目が覚めたら、必ず伝えます」
「あと、君もちゃんと食べて休むように」
コンビニに入りかけたところで、思いとどまって通り過ぎて歩き続けてみた。人通りの多そうな方面へ進んでいると焼き肉屋を見つけた。独身の頃を思い出してみても、一人焼き肉をした経験はなかった。このことは誰にも話さずに黙っておこうと決めて、入口の扉を引いて暖簾をくぐった。
すっかり煙の匂いがついてしまった洋服をホテル内の洗濯機に入れて、カバンや靴には部屋に置いてある除菌剤を振り撒いた。夜の九時半を回ったところで、病院から電話がきた。こんな時間に、呼び出し音すら緊急事態を煽っているかのような鳴り方だった。
「水島さんの意識が戻りました。ただし、目は覚めましたけど未だに朦朧とした状態ではありますので、会話はできる状態にはありません」
今から会うことは出来ないが、遅い時間ではあるもののすぐにお伝えすべきと思い電話をしてくれた。一つ目の山は乗り越えた。わたしは溢れてくる涙を両手で覆い包んだ。
「どうした、目が真っ赤ではないか」
「見ないで」とわたしは誰もいないホテルの部屋で枕に顔を埋めた。
「あいつの目が覚めたのか」
わたしはグズりながら、「そうよ」と答えた。
「よかったな、本当に」
「これで、元国も戻って来れるの?」
返事がない。「ねぇ」と声をかけながら枕から顔を上げる。もちろん、元国はいない。一時間前に大浴場に入りに行ったばかりだけど、わたしは着ているものを全て脱いで、頭から自室のシャワーを熱々にして頭からかぶった。




