27 折りたたみ傘をカバンの隅に 〜 果圓 3日目
水島果圓 33歳(1月18日)②
カウンターに貼られたメニュー表と、目の前の店員のネームプレートを交互に見てしまっていた。それは端から見れば、カフェの若い女性スタッフの胸元をチラチラと見ている行為に間違えられかねない。彼女の笑顔に変化の兆しはなかったけれど、きっと気持ち悪い客だと感じ始めていたはずだ。
プラスとかマイナスとか、○とか×とか、右とか左とか、こっそりどこかにヒントが隠されていないだろうかと、東京駅の構内をスローペースで歩いていた。後ろからはどんどん追い抜かれていく。前からはスルリと避けられる。みんな歩くのが速すぎる。
乗車時間まではまだ余裕があった。新幹線口に向かう道すがらにカフェを見つけたので、美味しそうなコーヒーの匂いに誘われて入ってみると、店員の女の子の名前が丸井さんだったのだ。
丸井さん、まるいさん、○いさん、○。
肯定、YES、賛成の合図?
『眠りのノート』をホテルに捨ててしまったことで、肩の荷が下りたというわけではなかった。もともと、重荷となる負担にはなっていたわけではなかったのだから。では、図らずも捨て去ってしまったことで、未練が残っているのか。女々しく引きずっているのか、今はまだ答えられない。
ノートそのものに対しては、予想外にも現時点では忘れがたき対象という感じでもなかった。しかし、その書かれていた内容となると、話しは別だった。
特に旅行の一週間前に出現した、風と閂。
そして、昨日の朝に書かれていた八文字。
相談した人から頂戴した言葉たち。
飛 禁。
果穂はあらかじめ航空券を買っていた飛行機には乗らないでほしい、と言った。飛行機に乗ることを禁止しているとまでは取れない。別の便なら平気だったという意味なのか、今さら気付いた。あるいは、飛・禁は別の読み方があるのかもしれない。禁を調べてみる。
会意形声で作られている文字。上の部分は林、そこは神の御座すところ。人が気軽に入ってはならない場所。下の部分の示は、神を祀るときに使われる机を意味しているようだ。つまり、禁はNO!、ダメ、ではなく、神聖なところ。そこに向かって飛ぶ、または、そこを飛び越える、こんな解釈も成り立つのかもしれない。
境に入りては禁を問う。
境は他の国と言い換えても良いらしい。郷には入れば郷に従え、の類義語的なことわざで、法律や慣習が違うことを認識して、場所を移動するときにはよくよく注意することを促している。
飛んで火に入る夏の虫。
気が付かないうちに、危険や災いの中へ飛び込んでしまっている様。
体に染みついた癖のせいなのか、未練を引きずる行動からきているのか、果圓は〇.七ミリのシャーペンを手に新幹線の席で文庫本を読んでいた。線を引いたり、丸で囲んだり。
昨日買った『月と六ペンス』が、こうして自分だけの本になっていく。丸で囲った部分を並べて見る。
風景…旅行に出る一週間前に、風。
仕方ない…大原美津が指摘した東方仗助。彼女が見た、浮かぶ文字は東であった。
卑しい…矢野少年に贈った言葉。卑下と鼓舞。
親しかった…一昨日の朝、八文字の一つ。
方向
台詞…ノートに書かれた記念すべき一文字目、台。
両方
親密
飛びこんで…飛ばずに今はレールの上を走っている。
ここまで冒頭から十七ページ。
方が三回もある。果圓は本を閉じて、スマートフォンで検索を始めた。方がつく地名を調べてみる(単なる閃きだ)。
「読み方が難しいのが多いな。でも、これは方ではなくて、その前の方の漢字か」
大阪の枚方市
福岡の直方市
茨城の行方市
座面の上で尻を前に滑らせて、だらしない態勢になった。目をつむり、左手の親指と中指でこめかみを押さえる。アイアンクロー。ウォーズマンの得意技のひとつだ。
メガネは丸くなかった、カフェ店員の丸井さん。彼女なら、どの漢字に〇をしてくれるだろう。もう、『眠りのノート』は手元にはない。角が緩やかにカーブした、長方形の細長いゴミ箱に捨ててしまった。
閉じた『月と六ペンス』をそのままカバンに戻して、別の本を取りだした。初めて読む本は今はどうも良くない。本の世界にどっぷりと漬かれない。そこまで馴染みのある内容でもないし。
読み慣れた本に持ち替える。藤沢周平の『風の果て』。書き込みもたくさんしてある。だいたいは言葉の意味を調べたものだけど。徒目付とは?郡奉行とは?
「また、村上春樹を読んでいるの?」旅行に出る数日前の会話。
「そうよ、『風の歌を聴け』。風と言ったらこの小説でしょ。ここから『ダンス・ダンス・ダンス』まで行ってしまうわね、たぶん。今日中には読み終わるから、旅行に持っていってもいいわよ」
「いや、村上春樹はいいよ。おれはこっち」
「なに、果圓こそ、また藤沢周平。人のこと言えないじゃない」
ざっくばらんな彼女が黙っている、と果圓が勝手に思っていることがあった。証拠は何もないし、もちろん本人に問いただしたこともない。それは瑞穗が真夜中の自分と何らかのコンタクトを取っているのではないかということだ。
『眠りのノート』に登場した漢字を啓一叔父や蜂谷先生に相談すると、連想ゲームのようにその漢字と向き合って、彼らなりのヒントや答えを果圓に与えてくれる。しかし、瑞穗は自分の生活の中にその漢字を取り込んでしまう。暮らしの延長線、日常の範囲内。たまに自分より先に知っているのではないかと思うこともある。
風と閂をノートに見つけた朝、閂には反応したけど風には無風状態だった。その日の夕食後に、ソファに座って『風の歌を聴け』を読んでいた。瑞穗は受け取った文字を工夫して返却してくれるのではなく、自分の部屋に持ち帰ってしまうのだ。
「あなたはそっちを探して。わたしはこっちを探してみるから」と言っているかのように。
そんな彼女の態度にとても救われている。果圓が知らない己の姿。深い夜に良からぬことをしでかしているのではないかという、不安や心配をずっと抱えてきた。しかし、瑞穗が見てくれているかもしれないと思えば、多少なりとも心のモヤモヤを払拭してくれているのだ。
車窓の外は晴天そのものだ。太平洋側を北上中の新幹線は、確実に北海道へ近づいている。夕方には天気が崩れるという予報だけど、そんな予感は今のところ微塵もない。そうは言っても天気予報は科学的に導かれたものだから、信用できない理由はない。では、自分予報はどうか。今日のこれからの予報。もしくは予感。
良い予感?
悪い予感?
例えば、サクランボの生育状態を観察しながら、今年の収穫量は期待できそうだいう予感。これは良い予感。ここ最近に出現した『眠りのノート』の漢字たちと、話しを聞いてくれた人たちの反応や発言。これらをどう分析するか。結論、今日は何かが起きそうな気がする。しかも、どちらかと言うと悪い方。悪い予感に陥るとなかなか回復できない。思いつく処方箋は試みたけど、効き目が出るのはまだ先になるかもしれない(吊られた男のカードのせいだ)。
予感という奴は、それを感じたときには良きか悪しきかが、既に自分の中では決まっているように思う。しかし、現実は必ずしもその通りの結果にならないことが多い。つまり、良い予感がすると思えば、そこに油断が生まれて悪い方向に進んでしまったり。逆に悪い予感がしたならば、行動や言動をいつも以上に慎重に意識して、危険を回避できるときもある。どっちに転んでも、自分のはじめの予感は当てにならないと言える面もある。
近づいてきた何かが、どちらに属しているかが問題ではないのだ。すぐに前言撤回する。良い予感が、そのまま前進をもたらすこともある。悪い予感のままに、足止めを食らう局面に陥ることもある。予感なんて感じなければいいのに。
旅行に当てはめてみれば荷物になっても念のため持っていこう、という判断と決断で心持ちが少し落ち着く。防水靴を履いて、折りたたみ傘をカバンの隅にしのばせる。押す機会はないかもしれないけど、スタンプ帳を持ち歩く。
もう手元には、『眠りのノート』はない。
「ノートはないけど、フレンチトーストがあるじゃないか」
東京駅のコンビニで買っておいたフレンチトーストの袋を開ける。瑞穗があまり好んでは食べないフレンチトースト。甘い甘い糖分が、どんどん頭の方へエネルギーとして上がっていく。このまま無事に家に帰れるといいのだが。
予感の半分が的中したとき、果圓は病院のベッドの上にいた。この日、家族三人が再会することは叶わなかった。いつ誰が病室を覗き込んでも、果圓は眠ったままの状態だった。




