26 自らの手で捨ててしまうなんて ~ 瑞穗
水島瑞穂 34歳(1月9日)
規格外ではじかれてしまったリンゴを眺めながら、高校時代を思い出していた。このリンゴ(その当時は確かジョナゴールドだった)で初めてリンゴのタルトを作った。親しい人がただただ美味しいと言ってくれるだけで、嬉しかった十代の頃が懐かしい。
レシピが安定したものになったのは、二十代後半だった。見た目の変化はわずかなものだけど、原材料の配合割合とか行程にかける時間とか、細かい部分でのレシピの変更で味は変わってくる。今では十二月限定で販売している人気商品になった(自分で言うのもなんだけど)。キッチンの中がリンゴの香りでいっぱいになる、幸せな時間と空間の独り占め。
十二月の果樹園の作業は、天候の影響もあって必要最低限となる日が多い。日照時間も短くなるので、空いた時間には果圓や義母にも手伝いをお願いしている。果穂も何か手伝いたいと健気に言ってきてくれて、絵を描くのが好きだから試しにお渡し用の紙袋のデザインを頼んでみた。最初はいつも書いているような絵を描いていたけど、展覧会の図録を置いている本棚から見つけてきた柚木沙弥郎の本を持ってきた。親バカと言われるのは覚悟の上、その小さな手から生まれた装飾的な模様のいくつかは印象が心に焼き付く出来映えだった。
完成した限定二百個のケーキボックスを眺めながら、瑞穗は前夜の出来事を思い出していた。完成した限定二百個のケーキボックスを眺めながら、瑞穗は前夜の出来事を思い出していた。久しぶりに遭遇する目覚め方だった。今年の春以来だろう。金縛り状態で体が動かなくなっていても、もういっこうに怖くはない。時刻を確認するまでもなかった。
瑞穂はうっすらと開けられる瞼の奥から、左側で寝ているはずの夫がベッドサイドに腰掛けている確かな気配を察した。その向けられているはずの背中に向けて、頭の中で言葉を紡いだ。
「どうしたの?妙に深刻そうな顔して」
「表情が見えないのに分かるのか?」
「なんとなくね」
「彼の手帳を見たが、来週に東京へ行くのだな」
「そうよ。大学生のときによく通っていた映画館が閉館するから、お世話になった方へ最後の挨拶にね」
「イムラと娘は行かないのだな」(結婚しても旧姓で呼ぶのは、いまや元国くらいだ)
「私たちは私たちで忙しいの。久しぶりの一人旅だから、たくさん漢字を書いてあげて」と軽い気持ちで言った。
「今夜は、風の一文字を書いた」と、初めて元国がノートに書いた漢字を直接教えてくれた。風。
「もう、二十五年も経ってしまった」と彼がひとり言のように言った。
「何の話?」
「果圓との付き合いの年数だ」、元国が果圓のことを名前で呼んだ。これも初めてな気がする。
「ちょっと、急になに?わたしと果圓が付き合ってからは、どうせまだ十五年ですよ」
嫌な予感がしたから、わざと話を逸らそうとふざけて答えた。沈黙の風が吹く。
『風の歌を聴け』
『風と共に去りぬ』
『風の又三郎』
『風の谷のナウシカ』
『風が強く吹いている』
『風神雷神』
『風立ちぬ』
思いつくのはこれくらい。
「夫婦の絆に勝るものはない」
「どうして、今日はそんなに素直なの?」
「いつも、そんなにひねくれていたか?」
「そんなことはないけど」
「旅行を楽しんでくれ、と言っといてくれとオレが頼むのもおかしな話か」
「ねぇ、風ってどういう意味?」
「意味などない。風は風だ」
「どうして、教えてくれたの」
「特に理由はない。意味ありげなことを言ってしまって、悪かったな」
瑞穗はリンゴの皮を剥いて、タルト生地にのせる厚さに切っていく。朝食の後で、果圓から『眠りのノート』を見せられた。分かっていたけど、初見を装って不自然にならないように目を向けた。風の文字を見つけた。そして、その下にもう一つ。
閂
昨晩のいつもと様子がちがった元国のことが頭に浮かぶ。夫の身に何かが起きるのではないか、そしてその何かはたいてい悪いことなのではないか。瑞穗は叔父の啓一に起きた事故を思い出していた。不安な気持ちは募るばかり。それでも、そんな時だからこそ、瑞穗は調理をする手を止めない。包丁で誤って指を切ってしまう失敗なんて起こさない。オーブンで火傷をするミスもちゃんと回避できる。
いつだったか、何のテレビ番組を見ていた時か忘れてしまったけど、「おれだったら家族を守るためなら、大切にしていたものだって捨てられるさ」と果圓が言っていた。その時に彼が思い浮かべていた大切なものとは何だったのだろう。
調理器具は瑞穗にとっては大切な親友だ。彼と付き合う前から使っているもの、母から譲り受けたものもある。彼にとっては書道具(よく新しいのを買っているけど)、それとも『眠りのノート』かな。いつだって寄り添ってくれてきた親友を、自らの手で捨ててしまう状況が、選択しなければいけないタイミングが来たらどうしよう。今の瑞穗には答えが出せない。
「閂って読むんだよ」
「閂って、扉の鍵みたいなやつ?」
「そう、二枚の扉の接する部分を固定する、横にわたす棒といえばいいかな」
「風と閂」
元国は閂のことは教えてくれなかった。もう扉は開かないということなのだろうか。それとも、閂を外して扉を開けろと言っているのだろうか。
本棚から一冊を抜き取る。
【「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。】
あまりにも有名な『風の歌を聴け』の冒頭の一文だ。またこの本から始めればいい。何度でも。完璧な文章や、完璧なレシピなんて存在していなくても。閂の本当の意味を理解できるのが、ずっと後になったとしても。完璧な絶望は存在しないと言ってくれているのだから。
参考文献
「風の歌を聴け」村上春樹(講談社文庫)




