21 明日、何かが起きますね ~ 果圓 2日目
水島果圓 33歳(1月17日)④
最初に頼んだ料理の大皿が一通り片付けられ、テーブルの上は各人のグラスと取り切ったものが乗せられた小皿たちだけになった。果圓はまだ食べ足りなかったから、そっと壁に立てかけてあるメニュー表を手に取った。同じタイミングで真心愛師がタロットカードを取り出した。何も言わずに、テーブルの上の空いたスペースでカードをシャッフルし始めた。
「真心愛師、今日はもういいのでは」
「私もそう思ったのだけど、さっき吹いた風が、今占った方がいいと教えてくれたのよ」
彼女の言うところの、風の便りということらしい。店内で風が吹くなんてありえないはずなのに。天井を見上げて、シーリングファンが設置されていないのも確認した。彼女にしか察知できない皮膚感覚なのだ。
「さあ、追加の注文の前にさっとやってしまうわよ」と言うものだから、開きかけたメニュー表を閉じざるを得なかった。大原美津も壁に掛かっているメニュー板を眺めていて、少し残念そうな顔をした。
小さな女の子がどこに行くにも持ち歩いているお気に入りの人形のように、真心愛師はそのタロットカードを身に付けている、と言っても過言ではない。まるで腕時計をはめるかのように。
使い込まれたそのカードは、丁寧に扱われてはいるものの果圓が初めて見たときよりはくたびれてきていた。箱にはテープで補強してある箇所もあった。しかし、息のピッタリ合う二人三脚のようにカードをシャッフルする動作の一つ一つは、準備運動で華麗なリフティングを披露するサッカー選手のようだ。相棒役がしみ込んだタロットカードは、美しい動きを見せてくれるサッカーボールだ。果圓のそれとは全く違う。彼女の指は、さっきまでピザを掴んでいた食いしん坊の象徴ではもうなかった。カードをシャッフルする時はとても滑らかな動きを醸し出す。セクシーさを伴っていると言ってもいい。カードは一枚一枚が離れているはずなのに、まるで繋がっていて不思議な生き物みたい見える。近くのテーブルでは彼氏か上司の愚痴を大きな声で話していた。そんな女子会の方々も気になってこちらを見始めていた。プロのマジシャンさながらに一束にまとめられたカードをテーブルに置くと、ほんの一息の間をおいて腕を横に流してカードは虹のようにきれいな弧を描いた。
「さてさて、今日はジュピタースプレッドよ」
「ジュピターですか?」、この展開法はある一日の運勢を占うのに適している。
「占うのは明日のこと」
「それもカードが言っているのですね」
「虫の知らせ」と彼女は呟いた。風の便りと虫の知らせは同義語ではないが、今はあえて訂正を指摘するのはやめた。真心愛師はいったん言葉を止めて、果圓の目をじっと見つめて「それでは、はじめましょう」と言った。
ジュピタースプレッドは四枚のカードを引いて占う。一枚目は午前。方角を例えにすると北におく。二枚目は東で午後、三枚目は西で夜。最後の南は占いたい一日すべてを示す。時短でどんどん開けていくよ、と真心愛師は所定の場所に置いたカードを素早くめくっていく。大原美津は黙ってその様子を見ていた。
一(午前)運命の輪(逆位置)
二(午後)カップの六(正位置)
三(夜)ソードの十(正位置)
四(一日)吊られた男(正位置)
テーブルの上に四枚のカードの絵柄が並んだが、すぐには誰も喋らなかった。チラリと真心愛師の顔を見ると、お先にどうぞ言わんばかりに視線だけで促される。面接の模擬練習のようだ。果圓は時間稼ぎに、小皿に残していた半分に切ってあるミニトマトを口に運んだ。
「明日、何かが起きますね」とポツリと言ってみた。二人の視線が果圓の目に重なり、間抜けな発言をしてしまったかもしれないと恥ずかしくなった。
「退屈な一日だと思った日だって、何もしないで時間が過ぎたわけじゃない。一日分、歳をとったからには、やはり何かが起きた結果があるわね」と真心愛師はフォローしてくれたのか、果圓にとっては肯定的な返事をくれた。
「あの、その明日、何かが起きるというのは、タロット占い的には良いことなのですか、それとも悪いこと?」と黙っていた大原美津が緊張気味に質問した。
「美津ちゃん、その良いことは誰にとっての良いことだと思う?」と真心愛さんは逆質問で返した。
「それは、今は、水島さんを占っているのだから水島さんにとっての良いことです」
「では明日、そうだね、空港に向かう途中に急病で倒れている人を見つける。救急車を呼んで、その人は大事に至らずに済む。しかし、果圓くんは予定の飛行機に乗ることができずに、北海道へ帰れなくなってしまう。飛行機代も戻ってこないとする。どこかで一泊しなくてはならずに、余分な出費がかかってしまう。人助けはできたけど、果圓くんにとっては計画どおりの一日にならなかった。これを良いことだと思う?思わない?」と聞かれた大原美津はすっかり考え込んでしまった。
起きた事実は一つしかない。しかし、それを良きことと見ることもできるし、良きことばかりではなかったと読み取ることもできる。人助けをして感謝されて、自己満足だとしても、自分自身を褒めてやれる。ただ、その裏面では別の選択肢があったことも当然ながら存在する。
「良いことが必ずしも善ではない。その逆も然り。〇か×で物事を見るのではない。一つの出来事を〇にするか×にするかは、その人次第ということですか」と大原美津は自らに言い聞かせるように答えた。
その発言を聞きながら真心愛師は満足そうに頷いていた。
「良いことはいつでも善であって欲しいけどね」と付け加えた。
タロット占いでは、カードが正位置か逆位置かで解釈の内容が変わってしまう。『眠りのノート』に出現した親の漢字から、親孝行と親不孝を連想するようなものだ。そして親バカという言葉もある。世界は対立構造で成り立っているのではない。あらためて、テーブルの上のカードを見る。
一(午前)運命の輪(逆位置)。良いか悪いかと言えば、悪い変化が発生する運勢である。しかし、永久にその悪さが続くわけではなく、時間の経過とともに解消されていく。一日か一ヶ月か一年か分からないけれど、希望の芽がいずれは生まれる。
二(午後)カップの六(正位置)。郷愁を誘う暗示のカードであるが、この流れで出てくるといまいちピンとこない。気になるのはカードナンバーが六であること。今朝の『眠りのノート』の八文字として現われた一つだ。数字の六は調和やバランスを意味する場合がある。現時点を安定している状態と仮定するならば、その環境が乱されるということだろうか。
三(夜)ソードの十(正位置)。これは絵柄が恐ろしいカードの一つだ。地面にうつ伏せに倒れた男の背中に十本の剣が突き刺さっているのだ。ただこれ以上は悪いことは起きない、最悪の終わりを示唆しているとも取れる。
四(一日)吊られた男(正位置)。このカードが総括的に出てくると、最終的には状況は良くなるとも読める。しかし、そのためには我慢強く耐えなくてはならない場面が出てくるはずだ。壁や試練が立ちはだかってくる。吊られた男は体が動かせない分、逆さまにされた頭を働かせるのだ。
「どう、何かわかった?」と真心愛師は果圓の思考回路が見えているのか、絶妙のタイミングで話しかけてきた。
「そうですね、時間はかかりそうですが、例え悪くなった状態でも徐々に改善はされていくのでしょう。ただし、何もせずにいたらその時間は長くなるばかりです。苦手なものを克服したり、楽な道へばかり進まないようにして、強い向かい風にも踏ん張り続けなくてはならないのでしょう」
「果圓くんなら、どんな明日でも乗り切れるわ」と既に明日を見てきたかのように言う。
「思い過ごしかもしれないのですが」と前置きをして、果圓は『眠りのノート』を再び開いた。啓一叔父と別れてからそのページを見ているときに、ふと感じたことを言葉にした。
「なに?」
「今朝の八文字ですけど、今までよりも、文字からためらっている印象を受けたのです。全部からではないですが」、と二人の前にノートをそうっと押し出す。少し眺めたあとに二人は目を合わす。
「私たちにはその違いはよく分からないけど、あなたがそう思うならそうなのかもね」
「だから、どうしたって話ではあるのですが」
「いいえ、そういう感覚は大切よ。意味や意図が分からなくても、変化や違いに気づける精神状態を保っていることが大切よ。さあて、タロットはおしまい。もう一杯、頼もうか?」と言って従業員に声をかける。大原美津はさっき注文しようと思っていたものを、壁のメニューを見ながら頼んでいた。
手書きの文字は、書いた当人のその時の気持ちをよく表す。誰もが人生で最も何度も書くのは、自分の名前ではないだろうか。筆で書いた自分の名前は、それをひときわ濃くさせる。出来映えに自信のない書は、最後に書いた自分の名前を見ればよく分かる。『眠りのノート』の八文字のうち、六文字には躊躇いの感情を微かに感じた。ただ、躊躇いとは自信のなさと同義ではない。当人が書きたいと思って、書いた文字ではない可能性もある。勝手な思い違いかもしれない。彼が本当に書きたかったのは、どの漢字なのだろう。




