19 理由があると思いたいだけかもしれない ~ 瑞穗 4日目
井村瑞穗 20歳(3月23日)①
金縛り。
もうこの体勢にもすっかり慣れてしまった。体を動かせないことが仕方ないと諦めると、不思議に心の緊張は解けていった。その結果、彼に対する話し方もだんだんとフランクになってきて、丁寧語の合間にタメ口が混ざった。落ち着いてきたら外の音も聞こえてくるし、夕飯のおかずの微かな匂いも部屋に残っているのに気付いた。ここは果圓の部屋だ。何も心配することはない。
「晦朔だと?それは日常的には、ほとんど使わない言葉ではないのか」
「昨日、初めて知った言葉です。だって、あなたが晦の漢字をノートに書いたのだから、それを使った方がいいと思ったのですけど」
「あれは全然関係ない。全く、そんな意図はない」
「じゃ、どういうことです?」
「おい、またどさくさに紛れて理由を聞こうとしているな。その手には乗らん」
「ごめんなさい。そういうつもりではないです。ただ、名前の話しをしていたタイミングだったから。何かしらの意味があるのかと思ったの。それに、元国さんのことは果圓には詳しく話していないし。今はまだ黙っておこうと思ってます」
「今、なんと言った?」
「えっ?黙っておこうと」
「ちがう。さりげなく名前を呼んだだろう」
「あっ、つい。元国さんは、わたしの中だけの仮称です。正式じゃないです」
「元国って、もしかして」
「まあ、ご察しのとおり、元・国芳から取りました」
「おい、それをするなら元・芳国で、元芳が正解なのではないか」
「あぁ、そうかもしれないですけど。しっくり感があるかないかで」
「なんだか、ふんわりした決め方だな」
「仮称なんだから、ほっといてください。とにかく、わたしが果圓にあなたのことを話していないのは、わたしみたいな人は滅多に現われないとあなたが言ったからです。あなたはだからどうした、と思うかもしれないけど、そこに何か理由があるのかもしれない。理由があると思いたいだけかもしれない。だから、晦の漢字が書いてあることにだって、何かあるにちがいないと思うわけです」
「急に何の話しだ?話しの筋がよく分からんが、イムラの好きにすればいいさ。名前だって、晦朔よりは元芳の方がいいと思うがな」
「元国です。いやいや、ちょっとタイム」と両手の平を胸の前に出して、左右に振る動きをしたつもりになった。実際には仰向けになっているだけで、体のどの箇所も動いていない。「他にいくつか考えたのが、鞄の中の内ポケットにメモで入っています」
そうやって、わざと立ち上がらせようとしているな、と文句を言われるに違いないと思ったけど、彼はすんなりと鞄のところまで歩いて行った。瑞穗は目玉をこれでもかと端に寄せて、その様子をギリギリ見ることができた。パジャマ姿の果圓が歩いていた。着物姿の歌川国芳ではなかった。
メモ用紙には晦朔の他に、思いついた名前の候補が書いてある。晦の大晦日から連想したもの。
三十一(十二月三十一日から)
ジョヤ(除夜の鐘から)
そうじ(大掃除から)
また、サクランボから連想した名前もある。ふと、外国語ではサクランボを何と呼ぶのだろうかと思ったのだ。英語でチェリーは分かるけど、ではフランス語は?イタリア語は?となった。カタカナ表記だと若干のニュアンスの違いはあるけど、仏語ではスリーズで、伊語ではチリエージャ。でも、もっと良さげだと感じたのは、
キルシェ(ドイツ語)
ケルセン(オランダ語)
インタオ(中国語)
メモ用紙を手にしたまま、彼は平机へ戻ってしまった。静かな夜だ。幹線道路からも外れているから、深夜に走る大型トラックの音もほとんど聞こえてこない。
「名前とは、実に色々なものがあるのだな」
「どう、ですか」と瑞穗は恐る恐る聞いた。
「この中だと、そうじが最も名前らしいが。決定権はおれにあるのか?」
「もし、気に入ったのがあれば」
「ふうん」と本当に困っているようだ。しばらく、黙ってしまった。真剣に考えてくれている、と思うと真面目に考えてよかった。
「せっかく考えてもらって悪いのだが、やはり、さっきの分がいいのではないか」
「さっきの?」
「元国だ。イムラも思わずそう呼んだだろう。それくらい既に馴染んでいるということではないのか」
ふいに思い出す。数年前に友達が保護犬を飼うことになった。名前の相談を受けた。譲り受けた際に付いていた名前ではなく、もっとカワイイ名前にしたいと候補を見せてくれた。彼女の家の庭でその犬と遊びながら、既に決まっていた名前を呼んだ。初対面の瑞穗でも尻尾を立てながら、嬉しそうに近づいてきてくれた。友達には悪いと思ったけど、もうこのままの名前でいいのではないかと提案した。名前に意味や由来を求めてしまうのは、人としては当たり前の感覚だと思う。けれども、それ以上に呼ぶ方も呼ばれる方もなんかしっくりする、と感じる名前が一番いい。黄金色の毛並みの可愛らしいメスの子犬だったけど、「もはや、金太郎にしか思えないし、この子も金太郎を気に入っているんじゃないかな」と言った。
瑞穗が黙ったままいると、「仮称で安易に決めた名前だから、納得できないのか」と声が聞こえた。
「心の中も読めるの?」と驚いて返事した。
「そんなことはできない。この流れでの沈黙なら、誰だってそう思うだろう」
意味とか由来とかは最上位ではない。呼ぶ方も呼ばれる方も、肩肘張らない名前がいいに決まっている。
「元国、でいいの?」
「良いと思うぞ。なんだか徳川将軍の名前にありそうではないか」
「何ですか、それ」と言いながら、瑞穗はスルーしようと思ったけど、思考が一時停止した。徳川将軍だと?また急に具体的な固有名詞だ。まるで歌川国芳のときのような。
「ちょっと、もしかして、まさかとは思いますけど、徳川将軍の誰かにも憑いていたことがあるの?」
しかし、彼の返事はなかった。部屋の中を再び歩いているようだった。瑞穗の声が届いていないのか、わざと無視するように黙っているのか、表情が読み取れないからもどかしさしか感じなかった。教えてくれないのなら調べてみるまでだ。浮世絵に続いて、徳川家の歴代将軍になんて興味を持っていることが果圓にバレたら、いよいよ怪しまれそう。歴女なんて瑞穗からは最も遠いところにいる人たちだと。果圓のイメージになかったタロットカードのように。
「これは、イムラが作ったものか?」
文字通り、目の前に現われたのはキッチンの上に置かれたままになっていた、サツマイモのパウンドケーキが入っているタッパーだ。
「食べてもいいですよ」
「いや、止めておくよ。痕跡を残したくはないのでな」
「あの、どうしたって金縛り状態は解けないのですか?」
「それについては我慢してくれ」
目が合った。目が合っていた。目を合わせてくれていた。ほんの二秒くらいだったと思うけど、二分程も見つめ合った気もした。元国がタッパーをキッチンの上に置く、コトンという音を合図に再び眠りに落ちた。




