18 水母の骨 ~ 果圓 高校生の思い出
水島果圓 17歳(3月)
啓一叔父と別れて、夜の予定まではまだ時間があった。目的地の最寄り駅前には、百貨店や商業施設が建ち並んでいる。書道具を豊富に扱っている店もある。別に不足しているわけではないのに、見ているとつい新しいものを試してみたくなってしまう。入店時には買うつもりはないのに、新発売の筆の特徴を聞いたりすると、財布のひもがスルッと緩む。新品の道具を意気揚々と使っていると、蜂谷先生からはチクチクと嫌みを言われる。でも、昔からその嫌みは的を得ていた。
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「また余計なもの買ってやがる。どれ、見せてみろ。なんだ、いつものと変わらないじゃねえか。手に馴染む前にとっかえひっかえしやがって。どれだけの女を泣かしてきたんだコノヤロー」と言ったあとで、「女性問題はいたってクリーンだったな」と訂正を促す前に訂正された。なにせ小学五年生からの果圓を知っている人なのだから。
啓一叔父の次に、『眠りのノート』のことを打ち明けたのが蜂谷先生だった。十七歳のときだ。啓一叔父は、向こうが果圓のことを察していたので話しやすかった面があった。しかし、蜂谷先生はちがう。小学五年生のときから書道教室には通っているけど、書道以外のことは話したり聞かれたりすることは稀だった。
「珍しく悩んでいる顔してるじゃねえか」
果圓は初め、自分に向けて言われたものだとは思わなかった。しかし、目の前の席にいきなり人が座ったものだから、びっくりして顔を上げた。
「相席、いいよな。ちょっと、コレどかすぞ」と言って、蜂谷先生は広げていたノートや辞書をさっと脇に追いやって、フィレオフィッシュバーガーとチキンナゲットとドリンクを乗せているトレイをテーブルの上に置いた。
「テスト勉強か?」
「いえ、違います。先生もマックとか来るんですね」
「たまに無性に食べたくなるときがあってな。で、テスト勉強でもないのに随分と熱心に何してるんだ?年齢にそぐわない難しい顔していたぞ」
果圓はどう説明すればいいのか、言葉に詰まった。啓一叔父の真似をして、『眠りのノート』の漢字を使って文章を作っていたからだ。今さら意味のなさない努力ではあったけれど。
チキンナゲットを食べながら、先生に書いていた文章をチラ見されて、「詩でも書いているのか?」と言われたくらいだ。
先週のことだった。瑞穂がバドミントン部の練習中に手首の骨折をする大怪我を負った。試合に出られなくなったショックと、今までのようにお菓子づくりができる状態で治るのかどうか不安で、本人もすっかり気落ちしてしまっていた。
それは事故の四日前に現れていた。骨。いつも通りに気楽に単語や熟語を書き出していた。
豚骨
骨折
キン骨マン
背骨
骨密度
小骨
人骨
骨川スネ夫
頭蓋骨
なんと、まさに骨折と書いていた。思いついたままを書いていただけで、どんな他意もなかった。そして、身近な人が本当に骨を折った。
これは、いったいどういうことなのか。
まさか、誰かが骨折すればいい、なんて呪いながら書いたわけではない。
指先にチキンナゲットの油分が付いたまま、一瞬の早技で蜂谷先生は『眠りのノート』を取り上げた(閉じたら逆に怪しまれそうなのでテーブルの上にそのままにしていた)。表紙を見て、中身のページをパラパラとめくった。果圓が書いていた散文詩まがいの文章も、じっくりと読まれた。
骨つなぎ 地に足つけて 飛び跳ねる
先生は筆箱の中からめざとく筆ペンを見つけると、何も言わずに余白部分に書き出した。
水母の骨
「みずははのほね?」
「クラゲの骨だ。あり得ないことやとても珍しい物事を言うことわざ。ていうか、誰か骨折ったのか?」
淡々とそう言うと、ドリンクカップを手にしてストローを口に入れる。オレンジ色の液体が吸い込まれていった。
命あれば水母も骨に会う
おもむろに別の文章も付け足して書いた。意味は教えてくれなかった。
果圓は先生なら訝しがったり、馬鹿にしたりしない気がした。誰か骨折ったのか?という質問にすぐに返事ができなかった。先生の求めている答えではなかったけど、自然な気持ちで『眠りのノート』の話を始めていた。骨の漢字が表れて、骨折と書いていて、瑞穂が本当に骨折をしてしまった話をした。
「それで、何してるんだ?」
「なにって、骨のことを考えています」
「それで、それが怪我をした彼女のためになるのか」
当然ながら、果圓は返答に窮した。
「そりゃ、黙るわな。いくら何枚も半紙に書を書きつらねたって、人の怪我や病気は治らん。このノートのことは置いといて、まずは他にすることがあるんじゃないか。お前は料理が得意なんだから、彼女が元気になるもんでも作って差し入れしてやれ」
当然ながら、蜂谷先生の言うことが正論中の正論だった。
「お前はアレだな、言霊、言魂、どっちでもいいけど、そんなもんを信じているのか」
「言葉の力は信じています」
蜂谷先生は最後の一口のフィレオフィッシュバーガーを飲み込むと、ズーズー言わせながらオレンジジュースを喉に流し込んだ。
「青いねえ。『眠りのノート』だか、『煙のノート』だか知らないが、そんなノートにさらっと書いたくらいで言霊が宿るとでも信じているなら、お前は歴史に名を残す書家になれるよ」
さすがに果圓も不愉快な顔を隠さなかった。いくらなんでも、と言おうとして台詞を遮られた。
「呪いであれ、願いであれ、成就させたい言葉があるなら、苦しみながら放った言葉である必要がある。例えば、断食をやり切ったあと、二十四時間の徹夜のあと。自分を限界まで追い込んで発した言葉にこそ、言霊は宿るんだ」
ハンバーガー食って、腹一杯になって、どんな願いが叶うと言うんだ。
保冷バッグの中から、サクランボとプルーンで作ってみたゼリーを瑞穂に差し入れした。彼女は少し前に文庫本が出版された『海辺のカフカ』を読んでいるところだった。
「これ、果圓が作ったの?」
「頑張って一人で作ってみたよ、と言いたいところだけど、イッちゃんにも手伝ってもらった」
「乙樹お姉さんが手伝ってくれたなら味は保証できるわ。冷蔵庫に入れておいてくれる?夕食のあとに頂きます」
それからは何てことない会話をして、面会時間の終わりになった。
「ねぇ」
「なに?」
「今までで一番うれしいプレゼントだわ」
命あれば水母も骨に会う
骨を持たないクラゲでも、命を大切に生きていれば骨のあるクラゲに会えるかもしれない、みたいな意味だった。でも、それはなんやかんやの分類学では、もうクラゲではないのではと果圓は素朴に疑った。健康に長生きしていれば良いことあるよ、か。基本的に骨は再生する、しかし、命は再生しない。
『眠りのノート』の骨折の文字の隣に、骨に効く栄養素は、たんぱく質、ビタミンC・D・K、カルシウム、マグネシウムと書いた。早く瑞穗の怪我が良くなるように。
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今では北海道の名産ともなっているハスカップ。果物の中ではカルシウム含有量が多いことを知って、果圓は高校生の頃から少しずつハスカップの樹を増やし続けている。




