16 別角度からの真実 ~ 瑞穗 3日目
井村瑞穗 20歳(3月22日)②
昨日の寝る前には、十時間後に渋谷の太田記念美術館で浮世絵を見ているなんて思ってもいなかった。旅行の計画を立てていたときも、どこかの展覧会に行ければいいなと漠然と考えていたくらい。だって、東京にはあまりにも美術館や博物館が多い。
半覚醒の状態で起床したときに、思わず口について出た「くによし」という言葉。
「何か言った?」朝ご飯を作ってくれている果圓と目が合う。
「なにも。おはよう。美味しそうな匂い」と言って、寝起きの会話をごまかした。
やっぱり、記憶は鮮明だった。芳国と呼ばれていた男と歌川国芳の話しをしていたことをはっきりと覚えていた。今は呼び名がないから、名前を付けようと話しもした。サクランボの品種からヒントを得ようとしていたけど、気に入った呼び名にはならなかった。結局、良い名前が見つからずに、誤ってテレビのコンセントを足で引っかけて、パチッと画面が消えるかのように会話が終わった。
ただ、考えごとをするにも仮でも名前がないと思考しづらいから、ひとまずのところ元国としてみた。元国芳だから元国。
渋谷には行ってみたいお店がいくつかあった。朝食を食べながら、自然体を装って浮世絵が見れる美術館があるか聞いてみた。
「うきよえ?浮世絵のうきよえ、だよね」
「他にあるの?」
「ないと思う」
絶対に怪しんでいると思いながら、あえて黙った。ここで弁解するように、浮世絵を見たい本当ではない理由をでっち上げても良くないと思った。果圓はスマートフォンで何かを調べている。
「渋谷には行くのなら、太田記念美術館だね。ちょうど、北斎の展覧会をやっているし」
「葛飾北斎かあ。いいね、浮世絵のど真ん中」とそこは話しを合わせた。歌川国芳の企画展だったら良かったのに、とはさすがに言えなかった。
「これ見て」と朝ご飯を食べ終えたところで、果圓が『眠りのノート』のページを開いて見せてきた。
「また一つ漢字が増えていたよ」と指さしながら渡してくれたところには、晦の字が書いてあった。
「これは、大みそかで使う漢字?」
「そう」
そして晦の漢字を使ういくつかの熟語が書かれてある。瑞穗が起床する前に書いたのだ。どれも見たことがなく意味を尋ねる。
大晦日
晦日
晦朔
晦蔵
晦渋
晦冥
彼と話しをしているときに、既にノートに書いていたのだろうか。それとも、瑞穗が再び寝落ちしたあとに書いたのだろうか。もしも、後の方であったならば名付けについて話しをしていたのだから、元国からの、この漢字を使ってくれよ的な提案なんだろうか。
瑞穗は果圓が説明してくれる熟語の意味を聞き流しながら、この中で彼の名前として相応しいものがあるのか考えてみた。どれも呼び名としては堅苦しい。あえて選ぶとするならば、晦朔かなと意味を聞いて思った。月の末日と初日を表し、一ヶ月間を意味する。または、朝と晩も表し、一日間を意味する。
「朝と晩かぁ」
「えっ、なに?」
「いや、ひとり言」
名前なんて何でもいいと言っていた彼が、こんな意味深なことをするだろうか、と瑞穗は深読みしすぎかなと考え直した。いっそ、そのまま晦の一文字で名前にする方が格好いい。
それにしても、まだ三日目なんだと体感時間のゆっくりさにびっくりする。もうずいぶんと長く、ここで一緒に暮らしているような気がしていた。この部屋の空気感が、北海道の果圓の部屋に似ているからかもしれない。あの仏間の部屋に。もっと驚くのは、正式に付き合い始めたのがほんの二か月前のことなのだ(出会ったのは中学生のときなのに)。
▼ ▼
成人式の翌日だった。まったく予測していなかった果圓からの告白に対して、瑞穂が開口一番に放った言葉は「今さらだねぇ」だった。
「駄目かな」
「ねぇ、即答しなくちゃいけないの?」
「いや、今ではなくてももちろん構わないよ。ただ明後日には東京に戻るから。それまでに返事が聞けたらうれしいとは思うけれど」
「ねぇ、わたしたちって、何回くらいデートした?」
「回数?映画を見に行ったことはある」
「それから?」
「ケーキの食べ歩きもした」
「はい、あとは?」
「書道展を見に来てくれた」
「それはデートじゃないな」
「違うのか。初詣に一緒に行ったけど、それはデートに入る?」
「初詣はありでいいよ」
「思い出すと、二人でいろいろと行っているね」
「ねぇ、私の誕生日は覚えている?」
「八月十日」
「じゃ、美術館に展覧会を見に行ったときに、私が好きだって話した画家の名前は覚えている?」
「あっ、美術館にも行ったね。西洋画の展覧会なんて、ちゃんと行ったのはあれが初めてだった。えっと、誰だったかな、ちょっと待ってよ」
考え込む果圓を見ながら瑞穂はじっと黙っていた。たぶん、その日のことを思い出しているのだろう。駅で待ち合わせてから、駅で別れるまでの時間の流れを。
「さっき、告白してくれたとき、緊張してた?」
「そりゃ、それなりに緊張したよ」
「そんな風には見えなかったけど。中学生の頃からなにか大切な話しをしてくれるときも、表情や話しぶりもあんまり普段と変わらない人だよね」
「そうなのかな。自分では分からない」
「さっきの問題だけど、正解したらあなたと付き合うわ」
翌日の朝七時半に電話がかかってきた(日の出の時間からまだ三〇分くらいだ)。彼は果樹園の手伝いが一段落をしたタイミングだったのだろうか、その声には一仕事を終えた充実感の息づかいが滲んでいた。布団に入ったまま、明らかに半分寝ている声で瑞穗は電話に出た。
「分かったよ、昨日の問題の答え」
「どうぞ」
「眠そうだね」
「眠いわよ」
「答えは、アンリ・マティスだ」
「はい、正解です」
「やった。そしたら、付き合ってもらえるのかな」
「あのさ、わざとこんな早い時間に電話して、わたしが意識朦朧としている隙に話を進めようという魂胆?」
「早いってもう七時半だよ」
「まだ七時半」
「もう起きていると思っていたから、そんな変な魂胆なんてないよ。それにパン屋で働くなら、もっと早起きしないといけないでしょ」
「やな奴。ひとつだけ確認しておきたいけど、大学を卒業したら北海道に戻ってくる?」
「戻る。家業を継いでいく意志は変わらない」
「じゃあ、いいよ」
▲ ▲
こうして、お菓子作りの好きな女の子と果樹園の息子がやっと付き合うようになった。二人の関係性を見ていた友人達も、ハラハラやイライラしながらも一安心してくれた。淡い恋心とは、淡いままで居続けると、なかなかすくい取れなくなる。恋愛感情の上に、面倒な感情が積もっていく。このまま大人になって、仕事仲間みたいになるのも悪くないかも、なんて思うことすらあった。
それなりに彼の人となりを知ったつもりでいた。専門学校のひとり卒業旅行として、気楽な心持ちでやって来た初めての東京。これから厳しい社会人生活の前に、楽しい思い出づくりのつもりしかなかった果圓との、数日間のプチ同棲生活。
よもやそんな淡い期待を裏切られる展開になろうとは。果圓の秘密、隠しごと。それは嘘や騙しではなく、伝えようにも言いづらい内容であったのだ。不思議な現象。
裏切られる、なんて言い方はやはりよくない。後ろめたいことを黙っていたわけではないのだ。自分自身に何が起きているか、長い間、果圓自身こそ理解できないでいるのだ。むしろ、裏切っているのはわたしの方なのか、と瑞穂は思った。元国と話しをしたのを伝えていないのだから。もう少し事情が分かってから果圓に伝えるべきなのでは、というのは自己弁護の言い訳でしかないのか。自己弁護、いったい何を守りたいのか。独占欲?わたししか知らないこととして。
「ねぇ、これって、サツマイモかな」と果圓が一枚の浮世絵を見ながら、小さな声で聞いてきた。
「違うんじゃない」
「そう、この紫色はサツマイモな気がするんだけどなあ」
「形が丸っこいよ」
「じゃ、なにかな?」
「イチジクとか」
「ああ、イチジクね。なるほど、そうかも」と言って、思いのほかすんなり納得していた。瑞穗は口から出任せで言っただけなのに。たぶん、イチジクでもないと思う。
黙っていたけれど、実は動物と会話ができるんだ、と言われた方がまだマシだった。
うそっ、マジで、じゃ、あの雀は何て話しているの?と聞いて、ちょっと待って、あれはね、と彼が答える。そんな適当な会話でよかったのに。
瑞穗は元国と話しをしてしまった。それは果圓が秘密にしていたものの別角度からの真実だ。この事実を果圓にそっくりそのまま伝えることもできる。知らされた彼は、今までの肩の荷がおりた気持ちになるのだろうか。あるいは新しい悩みごとを抱えてしまうことになるだろうか。
「あっ、猫がいる」と路地裏の先を果圓が指さす。
「みゃ~」と猫が答えた。
「夕立が来ますよ、だって」
「本当に?瑞穂、猫語わかるの?」と空を見上げながら、「そんな予報じゃないし、降りそうにないよ」と言った。
しかし、アパートに戻って夕飯の支度をしていると、短い夕立が確かに降った。




