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13 名前だけでも教えて ~ 瑞穗 3日目

井村瑞穗 20歳(3月22日)①

 夜がやってきた。隣で寝息を立て始めた果圓を見ながら、緊張してなかなか寝付けないかと思ったけどそんなことはなかった。張り切って料理をしたからだろうか。

 またしても、瑞穂はふいに目を覚ました。時計が見えないので正確な時刻は分からない。体が動かせないからだ。昨夜と同じだった。わずかに動くと感じる眼球を左隣に向けると、そこに果圓の姿はなかった。見えない影を呼ぶための声もやはり出せない。けれども、不思議と恐怖心はなかった。だから、昨日と同じように頭の中で語りかけてみた。


「あの、もしもし、聞こえますか?」なぜだか電話口調になっていた。


 部屋の中に存在は感じているものの、目を見て話ができないから電話をしているイメージが自然と出た。そのイメージの先にいるのは平机に座っているはずの、見た目は果圓にそっくりの男性。その人が振り向いた姿まで想像できた。そして目が合う、ような。

 

「驚いたな」という声が聞こえた。

大きな声ではない。耳に届いたのか、頭の中で響いたのか判断はできなかった。耳に馴染んだ果圓の声質だけど、果圓の話し方ではない。文末に「~な」を使うところは、一回り以上も年の離れた男性の口調のようだった。


 男性は立ち上がることはなく、頭の後ろで腕を組んだ、ような気がした。すべては瑞穗の妄想と空想が生み出している映像だ。


「昨日の空耳は勘違いではなかったか」と言った。

もう一度、体に力を込める。開いている手をグーにしようと試みる。起き上がりたい、起き上がって何が起きているのかを見たい、見なくてはならない。しかし、指先はピクリとも動かなかった。


「おい、やめとけ。体は動かせないようになっている。悪いな」と声をかけられた。


「あなたは誰なのですか?果圓ではないのですよね。わたしのことは分かりますか?そこで何をしているのですか?」と立て続けに問いかけたけど、すぐに返答はなかった。カチッ、カチッという音が聞こえる。聞き覚えのある音。それはボールペンのペン先を出し入れする音だ。


「あの~」と返事を促す。


「質問責めだな」と彼は言った。


「聞きたいことがたくさんあります。どれかひとつでも答えてくれませんか」


「あんたはこの状況を怖くはないのか?」


「怖いと思っていても体が動かないから逃げられないし、助けを呼ぼうにも大声も出ない。でも会話はしている。今の私にできることは質問することだけです」


「落ち着いているな」と言われて、落ち着いているのではない、強い向かい風に対して歯を食いしばって立ち向かっているだけ、と言いたかった。悪い夢を見ているだけなら、目が覚めたらすべてを忘れてしまっていたかった。限りなくあり得ない仮説を立てた。果圓がふざけて何かの役になりきって、長大なドッキリでも仕掛けているのだ。


「名前だけでも教えて」


「名前など持っていない」


「名前がない。そんなの不便じゃないですか」


「名前ってそんなに大事か?」


「大事です。お互いが名前を知らないと会話もしづらいし。君、あなた、お前、おい、では味気ないです」


「ずっと昔に同じようなことを言われたな」


「昔?名前があったことがあるんですね?」


「あんたと同じようにこの身を認識できて、話ができる相手がたまにいる」


「さっきからあんた、あんたと言ってますけど、わたしには井村瑞穂というちゃんとした名前があります」


「イムラミズホ。それじゃ、イムラ、俺の名前も考えてくれよ」


「そんなの急に言われても。前はどんな名前で呼ばれていました?」


「前と言っても、こんな感じで話ができる相手が現われるのは珍しいからな。もう百五十年くらい前のことだぞ」


「そんなに昔なの」


「そのときは芳国(よしくに)と呼ばれていた。当人の名前をひっくり返しただけだったが」


「よしくにをひっくり返す。にくしよ?」


「違う。国芳(くによし)だ、絵描きだった」


「くによし?歌川国芳って有名な浮世絵師は知っています」


「よく知っているな。この時代でも有名なのか、そいつだよ」


「ちょっと待って、そいつって。歌川国芳に憑いていたの?」


「そうだ、当時からなかなか人気のある絵描きだった。それより、憑くなんて言い方は心外だな。俺は別に幽霊ではない」


「幽霊でなければ何者なのですか?」


「あんたもしつこいな」


「あんたではありません。井村瑞穗です」


「あぁ悪かったな、イムラ」と言って謝ってくれたけど、瑞穗の質問には答えなかった。


「幽霊ではないとして、どうして現代では果圓に乗り移っているのです?」もしかして有名人候補なのかしら。


「こいつがこれから有名になるのかどうかは知らん」

えっ、心が読まれた?


「そうだ。ただし、俺に入る先を選ぶ権限はないから未来のことは分からない。それより名前の話はどうなった?」


「そう名前の話でしたね。国芳だから芳国。果圓だから圓果ってのもあんまりだなあ。あなたのことが何も分からないのだから、名前の付けようがないです。せめて顔だけでも見せてくれませんか」と瑞穗は近づけさせようと試みた。室内の空気の振れ具合を逃すまいと集中する。まるで天井裏に隠れている忍者みたいだと思った。


「この国には名無しの権兵衛というのがあるだろう」

声の主は近づいてはくれなかった。瑞穗の目に映るのは、床からほのかに照らされている白い天井だけだった。


「そんなのは面白くないです」


「面白い名前が良いのか?」


「そういう意味ではありません。個性のない名前は嫌だと言うだけです」


「俺はそれでも構わないが。じゃ、イムラの好きなものとかあるだろ」


「好きなもの」本物の果圓の顔を思い浮かべて、「サクランボかな」と答えた。


「それでいい」


「よくない。なんでオジさんにサクランボなんて可愛い名前を付けなくてはならないのです」といつしか瑞穂はおじさんと電話で会話しているイメージになっていた。


「俺に年齢は関係ないが、今さらっとおじさんと言ったな。まぁいい。サクランボは果物だろ、食べたことはないがな。色々と種類があるものじゃないのか」


「それは、それなりにあります。佐藤錦とか」


「それでいい」


「ナポレオンというのもあります」


「それでもいい」


「本当に何でもいいんですね」


「イムラが呼びやすいものにすればいい」と完全に丸投げされて瑞穂は考えた。歌川国芳に対抗するのに、ナポレオンなら遜色ないのではないか。しかし、そのままでは芸がない。


「錦ナポレオン」


「いいじゃないか。決まりだな」

なんだか芸人さんの名前みたいだと、瑞穂は思った。


「いやいや、駄目。ぜったい変だわ。呼びづらいし、ちょっと一日考えさせてください」


「好きにしたらいい。とはいえ明日も会えるかどうかは分からないけどな」と言われたところで記憶が途切れた。


 朝、全身麻酔で手術を受けて、目が覚めたときのような覚醒だった。高校の部活の練習で大きな怪我をして、手術をしたのを思い出した。寝起きの瑞穗の口からポロッと出た言葉は、「国芳」だった。

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