10 特別な存在 ~ 瑞穗 2日目
井村瑞穗 20歳(3月21日)④
使い込まれている『眠りノート』は、ページをめくっている箇所が指の摩擦で黒ずんでいる。瑞穗はそこを敢えて避けながら次のページへと進む。
合間に自分で作ったスイートポテトを食べる。今回も美味しくできた。すっかり味の加減は安定して作れるようになった。誰もが知る定番のお菓子でも、食材次第で味が変わらないように、ますます数をこなしていかなければと思う。
昨晩の彼の様子。彼とは果圓ではない方の男。いったい何者なのか。何気なく聞いたことで、こんなにも話しがややこしくなってしまった。『眠りのノート』を読みながら、もしかしたら、死ぬまで目にすることのなかったノートかもしれないとも思った。その様子や体験したことを瑞穗が口にすることがなかったのなら、果圓は『眠りのノート』のことをずっと秘密にし続けたのだろうか。
秘密。
どうして今まで黙っていたの?なんで教えてくれなかったの?強い口調で質問の矢を飛ばすことを瑞穂はためらった。悪気があってのことではない、後ろめたいと思っているからでもない。ちゃんと説明ができないんだ、果圓自身が自分の身に起きていることに対して。
誰よりも言葉を大切にしたいる人だ。伝えきれないと思っているのだろう。沈黙は瑞穂のことを想ってのことかもしれない。
誰にだって黙っておきたい秘密の一つや二つはあるものだ。瑞穂も自分自身を省みる。一つや二つは確かにある。果圓のそれに比べれば、単に恥ずかしいから言いたくないだけ。自分ですら理解できていない現象を抱えている彼とは、悩みの種類が根本的にちがう。
はぁ。なんて間の悪い質問をしてしまったのだろう。
自己弁護させてもらうなら、たいてい墓場まで持っていこうとする隠し事は、予想外のタイミングで予想外の人物から振られてしまうものなのだ(振った方には悪気がない)。だから白日の下にさらされたとき、なぜ黙っていたのとか、秘密にしていたの、なんてこちらから聞いてはいけないのだ。
そうは言っても、瑞穗に対する果圓の開かずの部屋の扉は開かれた。たった一夜限りのことかもしれないし、また同じような夜がくるのかもしれない。現段階では深く考えても仕方がないことだ。ただ彼の言うことが正しいのなら、これまで誰も目撃してこなかった果圓のもう一つの姿を見ることができた自分は、彼にとって特別な存在であるのかもしれない。
彼?どっちの彼だ?
今日もまた夜がやってくる。何気なく目を落としていたページで、ふと視線が止まった言葉があった。
「この糖質にはどんな意味があるの?」そう聞かれて果圓は反対側から、じっとそのページを覗き込んできた。書いた日のことを思い出しているのか、哲学的な答えでもくるのかなと身構えた。
「意味も理由もないよ」とあっさり言う。スズメバチかと思ってしゃがんで避けたのに、コガネムシだったみたいな感じだ。
「なにもないってことはないでしょ」
「いや本当に。連想ゲームみたいなものなんだ。例えば、オレンジ色のものと言えば?」
「オレンジ色?えっと、みかん、ニンジン、柿」
「食べ物ばかりだね」
「悪い?あっ、カボチャも中はオレンジ色だ」
「レスキュー隊の制服もオレンジ色だよね」
「確かに。あとは太陽とかはどう?」
「いいじゃない。そんな感じで思いつくままに書いているだけなのさ」
糖質の次には、
質疑応答
と書かれてある。この列は質の項目なのだ。
物質
たんぱく質
悪質
音質
と続いている。それらの言葉と言葉の間にはつながりや共通点のようなものは見受けられない。
「書道で書いているのはなぜ?」
「それは蜂谷先生の教え。人生に迷ったら、筆の声を聞けってね。そんな大げさなことではないのだけれど、書道で書いてみるとその文字の見え方は変わってくることがあるからそうしているだけ」
「そこも深い意味や理由はないのね」
「そう言われると間抜けに思われているような」
「そんな風には言ってないわよ」
「深く考えて答えが出ない問題があるとき、いっそのこと浅くしてやる、もう笑うしかないってことあるでしょ?」
「笑うしかないねぇ。トラブルが重なりすぎて、笑うしかないみたいな」
「似ている。出現した漢字の理由は考えても答えがでないと悟ってから、いっそのこと遊んでやろうと思うようになった」
「遊ぶ?」
「例えば、懸賞でホットプレートが当たったとする。定番の焼きそばやお好み焼きばかりを作っていても段々と飽きてくるでしょ。そうだパンケーキを焼いてみよう、クレープを作ってみよう、チヂミもいいかもしれないみたいな」
「例えば、レゴブロックみたいな感じかな。お城や船のシリーズを買ってもらって、飽きてきたら宇宙ステーションを想像して作ってみるような」
「そうそう、冴えているね」
「あれっ、これって何の話しをしていたっけ?」
「小学四年生の思い出。元祖であり記念すべきデビュー作が台だったという話しをしようと」
「台。滑り台の台。長くなりそう」そんな瑞穗の反応を無視して果圓は自分の話を続けた。
「まだ子どもだったし、自分で書いた記憶がなかったから誰かがイタズラで書いたにちがいない、としか考えられなかった。そして、同じような現象が立て続けに起きなかったから、すぐに気にするのを止めてしまった」
二文字目が登場するのは小学五年生になってからだった。再びひっそりとノートに現われていたのは、電の漢字であった。果圓少年は落書き帳から白紙を二枚ちぎって、二つの漢字をそれぞれ真ん中に書いた。誰にも相談しなかった。誰かに打ち明けるのがためらわれた。現在のように何でもかんでも調べたい事柄を検索すれば、答えがたくさん出てくる時代ではなかった。調べものは大人や頭のいい友達に聞くか、図書館に行くしか方法はない。果圓は後者を選んだ。
「辞書を引けば台でも電でもいろんな言葉が書いてあった」
「辞書だからね」
「まったく科学の進歩はすごいよね」とスマートフォンを持ち上げて果圓は言った。
「単語?熟語?それらを調べて何か分かったの?」
「何にも分からなかった。でも辞書を引くのは好きになった」
「果圓って小学生のときから習字教室に通っていたと前に聞いたけど、もしかしてこのことが関係しているの?」
「ご名答。小学五年生の二学期からね」
その年の夏休みに、彼は家族旅行で室蘭にあるチキウ岬灯台に行った。しかも、車で行かずに電車に乗って。目的地も移動手段も果圓のリクエストだった。そのどちらもノートに書かれてあった漢字をヒントにしたものだった。
「家族の前で灯台の話しをしたことなんてなかったからみんな驚いていたよ。自分自身も当時は別に灯台に興味なかったし。電車で行きたいというお願いも、父さんだけは賛同してくれた。長時間の運転から解放されるからね。でも、結果的には良い家族旅行になった。一番ブーブー文句を言っていた姉ちゃんが楽しんでいたから」
「ふうん」と相槌をうった。色々と聞きたい気持ちはあるのに、何を聞いていいのか分からない状態に陥った。ふうん、と言うしかなかった。
「それから色んな言葉をとにかく集めてみようと決めたんだ。それと字を書くことそのものを勉強してみたくて、習字教室に通い始めた」
手短に説明してといった手前、ちょっと端折りすぎじゃないかとは瑞穗は言えなかった。果圓も何かしらの質問を待っている様子だ。
「ところで、芋にはどんな言葉を集めたの?」と瑞穗は聞いてみた。目の前の小皿の上には食べかけのサツマイモのパウンドケーキが残っている。すると果圓は携帯電話のメモ機能の画面を見せてくれた。
ジャガ芋
薩摩芋
里芋
山芋
大和芋
菊芋
芋煮
芋けんぴ
焼き芋
スイート芋
フライド芋
芋サラダ
芋チップス
「ねぇ、後半に書いてあるのおかしくない?全部ポテトでしょ」
「あぁそれね、迷ったんだけど芋で統一したかったからポテト表記は止めにしてみた」
「それがマイルールなの?」
「肝心なことは漢字の芋なので」
果圓は書いてある言葉に特に深い意味はないよ、と繰り返し言っていたけどそんなことはないと思う。根拠はないけれど、かき集めた言葉の中には、果圓の脳内で引っかかる順番があるはずだ。そこに意味を見出そうとしているはずだ。灯台のように、電車のように。
「また夜中に何かを見たりしたら教えてね」と控えめな口調で彼は言った。文字や漢字以上に彼がずっと知りたいことなのだろう。誰だって自分の知らないところで、自分が勝手にしていることがあるならば気になるのは当たり前だ。
瑞穗は曖昧に答えた、「暗かったし寝ぼけていたし夢だったかもしれないし。あんまり期待しないでよ」と。




