1 言葉の使い方が変 ~ 果圓
水島果圓 33歳(9月8日)
驚きが手に伝わり、思いのほか力が入ったせいでフルーツサンドの中身がニュッと飛び出した。
「あっ」と思わず出てしまった声は、ニュッと飛び出して床に落ちてしまった桃に対してか、それともスマートフォンのニュースサイトに掲載されていた大学生の頃に通っていた映画館の閉館を伝える記事に対してだろうか。妻の瑞穗は夫の発した声に敏感に反応して調理中の手が止まった。水島果圓はキッチンのカウンター越しに、おそらくこっちを細めた目で見ているであろう彼女からの視線を背中に感じた。
「ちょっと何こぼしているのよ。急に大きな声だして、変なものでも挟まってた?」
「ごめんよ、手に力が入りすぎたみたいで、桃を落としてしまっただけだよ」
床に落ちた生クリームに優しく包まれている桃を拾っているすきに、彼女はテーブルに置かれたスマートフォンを覗き込んでいた。
「そういうことね」とパン生地を成型中のさなか、小麦粉まみれの手で画面をスクロールしようと試みるもうまく反応してくれないようで、「あぁ、もう」と言いながら手を洗いにいった。果圓はすっかり粉まみれになった自分のスマートフォンを悲しげに見た。皿の上には食べかけのフルーツサンドが傾いていた。
手を洗って戻ってきた瑞穗は記事の続きを読んでいた。手はきれいになったけれど、動くたびにエプロンに付着している小麦粉がフワッと部屋の中を優雅に舞っていた。その記事はシアターブルーという単館系映画館の閉館を知らせるものであった。
北海道でも残暑の名残がある九月、書かれている内容によると閉館は来年の三月末ということだった。果圓は大学四年間を神奈川県で過ごしていてシアターブルーにはよく通っていた。ある出来事がきっかけで支配人の方とも親しくなり、卒業後に北海道へ帰郷しても連絡が途切れることはなかった。家業の果樹園で働き始めると、彼はサクランボの時期になれば注文してくれることがたびたびあった。
「青林さんからは連絡なかったの?」
「今年の年賀状には閉館のことは書いていなかったね」
「まあ年賀状だから。新年のお祝いで閉館します、とかあまり書けないでしょ。それか、まだその時ははっきりと決めていなかったのじゃないかな」
「そうかもね」と生返事をしながら、残っているフルーツサンドを食べた。「ごちそうさまでした」と言って食器を流し台まで持って行く。
「行ってきたら、東京」と瑞穂が再開したパン作りの手を動かしながら言った。逆に流し台の前で動きが止まったのは果圓であった。閉館するまでの間に行きたいなという本心が、どこかから漏れてしまっていたのだろうか。妻をどうやって説得しようかと考えていたところに、彼女の方からそれが提案されたので、振り向いたまま次の台詞が出てこなかった。少しだけ考える素振りをして、「いいのかい?」と答えた。
「前にお会いしたのはいつ頃だったっけ?」
「四年は会っていないと思う。コロナが流行る前だから。そのときには、あと二、三年で引退しようかな、みたいに話していたっけ」
「やっぱりこのご時世で経営が難しくなったのかしら。それでも目標よりも長く運営したんじゃない。悲しむよりも、よくやったって褒めてあげなさいよ」
「だれ目線、それ」
「映画の神様目線」
「それなら問題ない」
「あなたも神様の代理の代理の代理として、労いに行ってあげなさい」
「普通の人間として行くよ。そして、労うは目上の人には使ってはいけませんよ」
「しつれいいたしました!」とわざとらしく大きな声で彼女は返事した。
「だいぶ感染のリスクは減ってきたみたいだけど」
「あなたはもう罹ったんだからいいんじゃない?」
「二回罹る人だっているよ」と言ったが、瑞穗はあまり気にしていないようだ。
「年が明けてサクランボとプルーンの剪定作業が始まるまでなら平気じゃないの?」
「せっかくなら、果穂も連れて三人で行きたいのに」と本音を漏らすと、瑞穂はオーギュスト・ロダンの『考える人』のポーズを意識してか真似た姿勢を繰り出した。スクッと丸椅子に座り込んで、右手の甲に付着していた小麦粉のせいで顎の下が白くなっていた。その姿を見ながら果圓はちょっと待てよ、右手で正しかったかなと国立西洋美術館に設置されている様子を思い出そうとした。瑞穗は立ち上がり、右手はそのままの姿勢でウロウロ歩くので、エプロンにも付いていた小麦粉がまたもや僅かに宙に浮いた。
「ちょっと違うな。右手の甲じゃなくて指の付け根から第二関節くらいまでの間で顎を支えている」と検索した画像を見せる。しかし、瑞穗は無反応のまま顎の下の右手を人差し指を立てておでこに持っていった。えっ、今度は警部補?
「それは難しいわね」そう言うと何故かくるっと背中を向けた。
「やっぱり、感染が心配だからね」
「二月に何があるか忘れてしまったの?」背中を向けたまま言う。どうも、間違えた推理をしたみたいだ。
「二月?」
「そう二月」彼女は正面を向く、しばしの沈黙。果圓は頭の中の引き出しをひっくり返して、二月にまつわるメモ書きを探す。しかし、なかなか見つからない。間違えて別の何かと一緒に捨ててしまったのだろうか。
「バレンタイン」と小声でド定番のことを言ってみた。
「ほう」とだけの返事。
「節分」恐る恐る言う。
「それと?」
「建国記念日」もう瑞穂は無言で視線により次を促してくる。
「猫の日がある。いや、あぁ、おれの誕生日か」
「もういいわ」
「ごめん、分からないです」と手を合わせて素直に謝る。こういうのは早いほうがいい。
「果穂の絵画コンクール」と瑞穂は溜息交じりに言った。
「あぁ、絵画コンクール。二月が締切りだったか」
「まったく、忘れないでよね。絶対にギリギリまで描くはずだから、一月二月なんて絵のことで頭はいっぱいよ。だから三人で東京に行くのは無理ね」
果圓は果樹園の作業スケジュールを頭の中で見直す。ただ、もう体に染みついている仕事の行程は、どこの引き出しをひっくり返しても変えられそうにはなかった。ゆっくりと時間が取れるのはやはり一月か。天気次第では三月でも可能な日はあるだろうけど、ギリギリにならないと計画が立てられない。青林支配人の予定も聞かなくてはならないし。瑞穂は果圓の思考回路を見透かしているかのように、「気にしないで、一人で行ってらっしゃいよ」と言った。
「でもなぁ、果穂がコンクールに向けて頑張っているのに気が引ける」
「ついでに何か仕事の予定も入れたら。販売先の新規開拓とか」
「行くのをやめようかな」
「もう、そこは正直なんだから」
「前向きに検討します」
「まぁ冗談だけど。そうそう啓一叔父さんにも会ったらいいじゃない?」
「そうだね。昔みたいに北海道へはなかなか帰って来られないからね」
すると瑞穂は急に顔の前に人差し指を上に向けて、背筋を伸ばした。そうやって急な動きをすると小麦粉が舞うというのに。今度はまた誰のモノマネだ?
「それでは、最初の問題です。全問正解された方には旅行券をプレゼントします」
「いきなり、何」
「わたしが果圓の大学時代のアパートで、最初に作ったスイーツは何だったでしょうか?」
「簡単だね」
「ブー、簡単なんてスイーツを作った覚えはありません」
「待て待て、それは解答じゃないよ。正解はスイートポテトだ」
「はい、正解」
「芋づくしの日のデザートだったね、懐かしい」
瑞穂は指先を二本のピースサインにして、静かに目をつむった。
「いよいよ、最後の問題です」
「まだ二問目だけどね」
「わたしが今作っている新商品の名前は何でしょうか?」
果圓は天井を見上げて、そして床を見つめて瑞穗と目を合わせた。
「ねぇ、それって既に答えが決まっているの?」
「ノーヒントで」
これは、おそらく正解のないクイズだ。色々と考えさせて、そこから良いネーミングがあれば採用してやろうという魂胆にちがいない。
「十秒経過~」、ヒントを探すためにテーブルに置いたままにしていた、アイスコーヒーを飲み干したマグカップを裏返してみた。iittalaと書いてあるだけだった。
「二十秒経過~」
「ちょっと、数えるのが早いんじゃない」
「ギブですか?ギブアップされますか?」
握った拳を口元に当ててくる。たぶん、マイクのつもりなのだろう。「それは、生地の中に包む系?それとも、上に乗っける系?」
「おぉ、いい質問だ。でもタイムアッ~プ。残念」
「正解は教えてくれないの?」
「正解は三時のおやつに分かるでしょう。大ヒントを言うと、今回は生地に練り込む系です。仕事をしながらゆっくりと考えて。執行猶予をあげる」
「また、言葉の使い方が変。執行猶予はモノじゃないよ。いいよ、ゆっくり考えます」
「今日中に正解できたら、旅行券をゲットするチャンスがあります」そう言って彼女は自分の作業に戻っていった。ステンレスのボールの中へ食材を放り込んでいた。果圓も仕事に戻ろうと、玄関へ向かいかけたところに、独り言のような声が飛んできた。「ねぇ。ホテルで一人で寝ていたら、久しぶりに『眠りのノート』に新作が書かれるかもしれないわね」
「新作なんて大げさな。たいてい一文字なのに」お互い目を合わすことなく言葉を交わした。
「書かれたら、教えてね」
「もちろん」
「もし、書かれていなければ、部屋に一人じゃないって証明になるしねぇ」
「何を疑っているのやら。もしかしたら、ミズホみたいな人は他にもいるかもしれないし」
「あぁ、なんか開き直っているよこの人。あの姿を見たことあるのはわたししかいないのに」
「じっくりと見たわけではないのでしょ?」
「どうでしょう。どっちにしてもわたしは選ばれし女ですから」
「その自信はどこから来るのやら」そして彼女は楽しそうに「お土産たのしみだなあ♪」という自作の歌を繰り返し奏でていた。
「気が早いよ。まだ五か月も先なのに♪」と果圓はキッチンに向かって、大きな声で求められていないレスポンスをして外に出た。




