8.冬のきざし
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北の地に、冬の気配が訪れ始めた。
紅葉が進む木々の合間を、ガーネットは今日も忙しく動き回っている。
本格的な冬がくる前に、庭園の整備をある程度済ませておきたいからだ。
「いい天気……」
晩秋の澄んだ大気が、心地よい。
ここは水も空気も綺麗で、王都にいたときより、ずいぶん健康になった気がする。
仮面舞踏会の夜から、一カ月が経った。
今のところオスカーからの接触はなく、フルーベル家の娘がヘルバルト伯の元にいるという噂も、出回ってはいないらしい。
(私の思い過ごしだったのかしら……)
あの夜見たオスカーの目は、まるで獲物を狩る肉食獣のように見えたけれど。
彼に対する嫌悪感が、そう見せただけなのかもしれない。そもそも落ちぶれた元婚約者など、あの男にとっては何の価値もないはずで。
「今は考えても仕方ないわね」
気を取り直し、植え付けた苗に水をやっていく。
この一カ月で、庭園内は随分変わった。何も植わっていなかった花壇には花を植え付け、寂れていたアーチにも寒さに強い「カザグルマ」を植え、つるが順調に伸びてきている。
きっと来年になれば、大輪の花が飾ることだろう。
「あなたたちが咲くのは、もう少し先ね」
花壇に並ぶ、小さな細い葉。先月植えた球根から芽を出したものだ。
可愛らしい姿に癒されていると、背後に気配を感じた。
「ずいぶん進んだな」
振り向いた先で、ヘルバルト伯が立っていた。
今日も氷のように整った無表情だけれど、目はちゃんとこちらを向いている。
「はい。まだまだですけれど」
「これでまだまだか。君が思い描く庭は、だいぶ理想が高そうだ」
微苦笑を浮かべた彼は、ふとガーネットをまじまじと見つめた。
「あの、何か……」
「その恰好では寒いんじゃないか?」
「え?」
ヘルバルト伯は困ったように眉を下げると、自分が羽織っている上着を脱いで差し出す。
「これでも着ておけ。風邪を引く」
「いえ、体を動かしていますので寒くありませんから。汚れますし」
「いいから着ておけ」
問答無用で押し付けられ、ガーネットは困り果てる。
主人の上着を借りる使用人など、どこにいるというのか。
「あの、本当に寒くありませんので」
「それから昨日、君は木に登っていたとハンスから聞いたが」
「そ、それは……剪定しようとした枝が、地上からでは届かなかったもので」
見られていたとは思わずしどろもどろに答えると、彼は大きくため息をついた。
「そういうときは、私かハンスを頼れ。とにかく二度と木には登らないように」
一方的に禁じられ、ガーネットは困惑を通り越してだんだん腹立たしくなってくる。
ここ最近のヘルバルト伯は、いつもこうなのだ。
先日もうっかり鎌で手を切ったらひどく叱られ、鎌を禁止されたところだ。
「お言葉ですが、私は必要だから木に登っているんです」
「落ちたら怪我をするだろう」
「それはそうですが、ヘルバルト伯様やハンスさんを危険にさらすくらいなら、自分でやります」
「駄目だ」
「なぜです。私は使用人なのですよ」
なおも食い下がると彼はしばらく沈黙してから、逡巡するように呟く。
「……私が困るからだ」
「え?」
「君が怪我をするかもしれないと思うと、居ても立っても居られない。自分が怪我したほうがマシだ」
そう言い放つと、ヘルバルト伯は逃げるように去っていく。
残されたガーネットはしばらく放心していたが、手の中にある彼の上着を、無意識に抱きしめた。
(どうしよう……動悸がおさまらない)
今のは一体どういう意味なのか。
淡い期待を抱いている自分に、思わず首を振る。
「今の私は、ただの使用人よ」
慈悲深いヘルバルト伯が、気にかけてくれただけのこと。他に意味なんてあるはずがない。
そう自分に言い聞かせ、上着を汚れない場所にかけると、作業に没頭する。
そうでもしてないと、余計なことを考えてしまいそうだった。