7’.嬉しいということ
北の地に帰ってきてからも、ガーネットの気分は晴れないままだった。
ヘルバルト伯は十分に務めは果たしたと言ってくれたが、オスカーのことで迷惑をかけたことに変わりはない。
ガーネットの身を案じてくれたのだろう、彼が邸の警備を強化するよう、ハンスに言いつけたことも聞き及んでいる。
「私、結局お荷物になっただけだわ」
小さくため息が、漏れた。
少しでも役に立てたらと、舞踏会の同行を決めたけれど。
やはり自分のような人間が人前に出るべきではなかったのだ。
「元気ないですねえ」
はっと顔を上げると、ロゼッタが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
慌てて仕事の手を動かしながら、ガーネットは謝った。
「ごめんなさい、ぼーっとしてしまって」
「そんなのいいんですよ。旦那様もここのところ何となくぴりぴりしているし……王都で何かあったんですか?」
「……実は、私の正体に気づいた人がいて」
「えっ!? 大丈夫なんですか?」
青ざめるロゼッタに、力なく項垂れる。
「このままでは、ヘルバルト伯様や邸の皆様に迷惑をかけるんじゃないかと不安で」
「そうじゃないですよ、ガーネットさんが大丈夫かって聞いてるんです!」
瞳を瞬かせるガーネットに、ロゼッタは詰め寄った。
「ここにいるとバレたらどうなるんですか?王都に連れ戻されたりしないんですか?」
「……わかりません。ヘルバルト伯様は心配するなと仰ってましたけど……」
実際のところ、自分の居場所が周知されればどうなるかはわからない。
オスカーの淀んだ目を思い出し、ガーネットは両手をぎゅっと握りしめた。
「私、ここにいたいんです。助けてくださったヘルバルト伯様のお役に立ちたいんです。でも迷惑をかけるばかりで」
「あーよかった〜」
ガーネットが言い終わらないうちに、ロゼッタがほっとしたようにため息を漏らした。
どういうわけか、すっかり安心したといった顔をしている。
「……あの、ロゼッタさん?」
「ガーネットさんがいなくなっちゃうのかと焦っちゃいました」
ロゼッタはてへへと笑ってから、あっけらかんと言った。
「私達のことなら心配いりません。旦那様はそんなヤワじゃありませんから。それよりもガーネットさんがここにいたいと言ってくれて、安心しました。きっと旦那様も喜びますよ」
「い、いえ。そんなことは無いと思います」
訳あり没落令嬢など、厄介者以外何者でもない。
けれどロゼッタはガーネットの否定は耳に入っていないかのように何事か思案している。
「旦那様のお役に立ちたいですか……そうですねえ、例えば何か作ってみるのはどうですか?」
「……何か、とは?」
「例えば旦那様のお好きなお菓子を作るとか、使えるものを作るとか」
確かにそれくらいなら、自分にもできるかもしれないが――
ふと。
「ヘルバルト伯様はお菓子を召し上がるのですか」
「ああ見えて結構な甘党です。特にシナモンたっぷり林檎パイがお好きなんですよ」
林檎パイを美味しそうに頬張るヘルバルト伯を想像して、なんだかくすぐったい気持ちになる。
大して役に立つわけではなくとも、上手に作ったら少しは喜んでもらえるだろうか。
「私に作り方を教えてもらえますか?」
「もちろんです! といっても私は作れないんで厨房に習いに行きましょう」
さっそく厨房へ向かったガーネットは、パイの作り方を教えてもらった。
お菓子作りは馴染みがなかったが、やってみると楽しくて、彼女は夢中になって取り組んだ。
林檎を砂糖で甘く煮て、ヘルバルト伯が好きだというシナモンをたっぷりまぶす。
パイが焼き上がるまでの間、ガーネットは厨房に並んだスパイスの多さに気づいた。
聞けば寒さの強いこの辺りでは、料理や飲み物によく使うのだそうだ。
「もしよければ、少し分けていただけますか。作りたいものがあるんです」
分けてもらったのはクローブとシナモン、そして果物のオレンジをひとつ。
「何を作るんですか?」
興味津々のロゼッタに、王都にいた頃、冬が来る前のこの時期に作られる香り玉の話をする。
オレンジの皮に串で小さな穴を空けながら、ガーネットは作り方を説明した。
「オレンジポマンダーといって、こうやって皮に空けた穴に、クローブを刺していくんです」
皮を埋め尽くすくらい刺し終わったら、シナモンパウダーをたっぷりまぶしてリボンで飾り、乾燥させる。
そうすればオレンジは腐ることなく、何ヶ月も香りを楽しめるのだ。
「凄くいい香りですね。旦那様喜びますよ!」
「こんなものしか作れませんけど」
ポマンダーは香りの良さだけでなく、魔除けや浄化にもなるという。
少しでもこの邸に良い運気が巡るよう、願いを込めてリボンを結んだ。
焼き上がったパイは、周囲から太鼓判を押される出来だった。
飴色のリンゴとシナモンのスパイシーな香りが、香ばしいパイと合わさっていかにも美味しそうだ。
「せっかくですし、焼き立てを旦那様に食べてもらいましょう。ほら、ガーネットさん!」
「は、はい」
ロゼッタに促されながら、ガーネットは鼓動が速くなっていくのがわかった。
ここ最近、ヘルバルト伯とまともに顔を合わせていないだけに、急に不安になってくる。
(迷惑がられたらどうしよう)
そう考えて、少しだけおかしくなる。
どのみち迷惑などかけっぱなしなのだ。ここはもう開き直るしか無い。
お茶の準備をして執務室を訪れると、ハンスがそれは嬉しそうに迎えてくれた。
「リヒト様、ガーネットさんですよ」
書き物をしていたらしいヘルバルト伯は、顔をあげるとガーネットに視線を向ける。
訪問を嫌がっている様子は感じられない。
「どうかしたのか」
「あっはい。お茶をお持ちしました」
「ああ、もうそんな時間か」
紅茶と共に林檎パイを出すと、心なしか彼の表情がやわらいだ気がした。
自分が作ったことをガーネットが口にできずにいると、付いてきていたロゼッタがすかさず切り出す。
「旦那様、この林檎パイはガーネットさんが作ったんですよ」
「……これを? 君が?」
「はい。初めて作ったので出来は良くないかもしれませんが……」
「旦那様のお好きなものを作りたいと、厨房で習ったんですよね!」
ロゼッタの言葉に、ガーネットは顔を赤くした。
林檎パイをまじまじと見つめていたヘルバルト伯は、全員の視線が集中していることに気づき、こほんと咳払いする。
「……いただこう」
彼が黙々と食べる間、脇に控えたガーネットは気が気でなかった。
ちらりと隣を見ると、ハンスさんがにっこりと微笑みながら目配せする。
「リヒト様、パイの出来はいかがですか」
「美味い。初めてとは思えないな」
それを聞いたとたん、ガーネットの心は温かく満たされていくのを感じた。
自分が作ったものを美味しいと食べてもらえることが、こんなに嬉しいなんて。
ヘルバルト伯は林檎パイを気に入ってくれたらしく、おかわりまでしてくれた。
つい嬉しくて、いつもより積極的に声をかけてしまう。
「お茶のおかわりもいかがですか。スパイスティーの淹れ方も教わったので、よろしければ」
「ああ、頼む」
ガーネットがティーポットから紅茶を注いでいると、なぜか彼がこちらを見つめているのに気づく。
「どうかされましたか?」
「……その腕はどうした?」
腕? と口にしかけ、左手首に包帯を巻いていたことを思い出す。
パイを焼くときにうっかりオーブンに触れてしまったのだ。
「うっかり火傷してしまって。大したことは――」
突然ぐいっと腕を引かれ、ガーネットの鼓動が跳ねた。
ヘルバルト伯は包帯の巻かれた部分をじっと凝視してから、我に返ったように手を離す。
「気をつけろ。跡が残ったらどうする」
「は、はい。すみません」
彼に掴まれた部分が熱くて、顔まで熱くなる。
今の顔を見られたくなくて、慌ててポマンダーが入った箱を取り出した。
「あの、これも作ったのでよろしければ」
淡いオレンジ色の箱に、赤いリボン。少しでも明るい気持ちになれるような色を選んだ。
受け取ったヘルバルト伯の目が、少し驚いたようにこちらを窺う。
「ポマンダーと言う香り玉です。お部屋に吊るして置くと、魔除けにもなりますので」
箱の中身を取り出したヘルバルト伯は、物珍しそうにポマンダーを眺めた。
「君がこういう物を作るとは意外だな。細かい作業は苦手かと思っていたが」
「仰るとおり、針仕事は今でも下手です……」
しょんぼりと返すと彼は「冗談だ」と言ってからふ、と笑みを零す。
「とてもいい香りだ。ありがとう」
その微笑みが優しくて、ガーネットは少しだけ泣きそうになった。
こんな顔を自分に向けてもらえる日が来るなんて、想像もしていなかったから。
(こんな日が、ずっと続けばいいのに)
迷惑をかけてばかりだと分かっていても、彼と邸の人たちと穏やかな時間を過ごしたい。
そんな想いが、日に日に強くなっていくのをガーネットは感じていた。