7.黒豹の男
「なんて素敵な殿方でしょう」
「仮面の下をぜひ拝見したいものね」
「あの令嬢は誰だ?」
「見たことあるような無いような……」
「次は俺と踊ってもらおう」
二人を称える歓声の合間から、様々な声が聞こえてくる。
少し目立ち過ぎたと反省したものの、時すでに遅し。気がつけばガーネットの周りには、次のお相手を虎視眈々と狙う殿方で溢れていた。
「私と一曲お願いできませんか」
「いやいや、ぜひ僕と」
戸惑うガーネットの視線先で、ヘルバルト伯は小さく頷く。
「行ってくるといい」
「ですが……」
「せっかく来たのだから、楽しめばいい。私のことは気にするな」
その途端、今度は彼の周りを女性陣が取り囲んだ。
「パートナーの方がお留守の間お暇でしょう。私とお話ししませんこと?」
「いや、私は……」
「あらいいお声ね。あちらでお酒でもいかが?」
次々に女性に迫られ困惑するヘルバルト伯を見ていると、なぜだか胸がざわつく。
やはり彼の元に戻ろうかと思ったところで、急に腕を引かれた。
「お嬢さん、僕と踊りましょう」
ガーネットの背すじに、ぞくりとしたものが走る。
黒豹をモチーフにした仮面を被った男が、口端をにんまりと上げていた。
(この人、もしかして)
「ちょっと待て、私が先に声をかけたんだぞ」
不満の声をあげた男へ、黒豹の男は冷ややか視線を投げかけた。
「選ぶのは彼女だろう?」
握られた腕をさらに引き寄せられ、ガーネットは思わず抵抗しそうになる。
しかし耳元で囁かれた言葉で、身動きがとれなくなった。
「やっと見つけたよ、ガーネット」
■
ガーネットには、1年前まで婚約者がいた。
エーゲル侯爵家の嫡男、オスカー=エーゲル。ガーネットより五歳年上の彼は、近年急速に力を持ちだしたエーゲル家次期当主として期待されている。
フルーベル侯爵の一人娘であるガーネットを、父は王家に嫁がせたいと考えていたようだが、ちょうどよい年頃の相手がいなかったこともあり、彼との縁談が決まったと聞いている。
ガーネットは、オスカーが苦手だった。
彼女に対しては礼儀正しく、最初は物腰柔らかな好青年に見えたものの。
次第に彼の目の奥に見える酷薄さや、身分の低い者をあからさまに見下す態度に気づくうちに、嫌悪感を抱くようになっていた。
父が決めた婚約者なので邪険にこそしなかったが、なるべく何かと理由をつけては会うの避けるようになっていた頃、突然婚約破棄が知らされたのだ。
(あの時は、心からほっとしたわ)
破談になった理由を父は言っていなかったが、ガーネットも尋ねることはなかった。
自分の預りしらぬところで婚約者が決まり、いつの間にか破談になっていることなど、この世界ではよくある話。
オスカーの妻にならなくて済むのなら、どんな理由だってよかった。
それなのに。
(この声と、あの目……間違いない)
ガーネットの名を呼んだ黒豹の男は、オスカーに違いなかった。
彼はにこりと微笑みかけると、再度尋ねる。
「僕と踊ってくれるね? お嬢さん」
「……はい」
ガーネットは言われるがまま、彼の誘導に従った。
ここで拒否をすれば、何をされるかわからない。そうなれば、ヘルバルト伯に迷惑がかかってしまう。
出来るだけ平静を装い踊り始めたものの、自然と顔がこばってしまう。
オスカーも気づいたのだろう、くすりと笑みを浮かべた。
「久しぶりに会ったから緊張しているのかな? 僕は念願の再会に歓喜しているんだけど」
「一体誰の話をしているのですか。人違いだと思います」
「そう? じゃあここで君の仮面を取ってしまおうかな」
思わず体を離すと、彼は可笑しそうに仮面の奥の瞳を細めた。
「はは、冗談だよ」
「そういう冗談はやめてください」
「ごめんごめん。相変わらず君はつれないね。……まあそこが可愛いんだけど」
耳元で囁かれ、全身が粟立つ。
今すぐ逃げ出したい衝動に駆られたとき、背後で声が上がった。
「スノウ!」
振り返ると、ヘルバルト伯がすぐ近くまで来ていた。
咄嗟に駆け寄ると、彼はガーネットを隠すように懐へ抱き寄せる。
「申し訳ないが、彼女は体調が優れないようなので失礼する」
「そのようですね。気づかなてくてすみません」
オスカーは素直に引き下がると、「ではまたお嬢さん」と去っていった。
安堵の吐息を漏らすガーネットを、ヘルバルト伯はひと気の無いところへ連れだす。
「大丈夫か。顔が真っ青だぞ」
「……すみません」
「さっきの男は知り合いか?」
黙り込むガーネットを見て、彼は小さく吐息を漏らした。
「帰りの馬車を呼ぼう」
「いえ私は大丈夫ですから」
「無理をするな。倒れられでもしたら、私が困る」
きっぱりと言い切られ、ガーネットはうなだれる。
せっかくヘルバルト伯の役に立てると思ったのに、自分のせいで台無しだ。
帰りの馬車では、無言の時間が続いた。
きっと彼は、怒っているだろう。ドレスも靴も誂えさせておいて、務めを果たせなかったのだから。
いたたまれなくなったガーネットは、無言で外を眺める横顔に、謝罪を告げた。
「申し訳ありません。お役に立てなくて」
こちらを振り向いたヘルバルト伯は、落ち着いた調子で口を開いた。
「何を言っている。君は十分務めを果たしただろう」
「ですが」
「途中退席のことを気にしているのなら、むしろ私にとってはありがたいくらいだ。ああいう場に長居するのは性に合わん」
「そうは言いましても……このことで、ヘルバルト伯様が不利なお立場になるのではありませんか」
「国王の命に応じて出席し、ダンスまで披露してやったんだ。文句は言わせんから心配するな」
それに、と彼は仮面を外し、ほんの少し表情をやわらげた。
「君と踊るのは、楽しかった」
思いもしなかった言葉に、ガーネットの心は揺さぶられた。
次第に胸の奥が、嬉しさで温かくなる。
「私も、です」
仮面を外しそう告げると、彼は「そうか」と頷き、視線を窓の外へ戻した。
そっけない反応だけれど、そこに以前のような冷ややかさはない。
ガーネットの中に渦巻いていた不安や焦りは、いつの間にかなだらかになっていた。
「ヘルバルト伯様、お話したいことがあります」
こちらを向いた灰銀の瞳へ、深呼吸してから切り出す。
「私にダンスを申し込んできた男性のことなのですが」
彼の目が一瞬鋭くなり、こちらを観察するものに変わった。
「やはり知り合いなのだな」
「はい。彼の名はオスカー=エーゲル。私の元婚約者です」
それを聞いたヘルバルト伯は、言葉を失くしているようだった。
「オスカーは私の正体をわかった上で、声をかけてきたようでした。名を呼ばれて――」
「あいつに何かされたのか」
「え?」
「あの時、何を言われた。包み隠さず言うんだ」
突然問い詰められ、ガーネットはびくりと肩を震わせた。
これほどこわばった彼の顔を見るのは初めてで、言葉に窮してしまう。
「あ、いや……すまない。あの時の君はずいぶん取り乱していたから、何かされたのかと」
「いえ、ご心配かけて申し訳ありません。直接何かをされたわけではないんです。ただ……」
「ただ?」
「ヘルバルト伯様は、オスカーがどのような人物がご存じですか」
彼は記憶を探るように腕を組んだあと。
「エーゲル侯爵なら面識はあるが、息子の方は直接話したことはないはずだ。……まあ、あまり良い噂は聞かないが」
「彼は目下と見れば相手を見下し、自分にとって必要ないと見れば容赦なく切り捨て、欲しいと思えばいかなる手を使ってでも、手に入れようとする人間です」
「……とりあえず、君が彼を嫌っていることはよくわかった」
「ええ。婚約破棄になったときは心から喜びましたから」
婚約破棄という言葉に、ヘルバルト伯はなぜか反応を見せたが、すぐにいつもの調子に戻る。
「つまりただでさえ嫌いな元婚約者に正体を見破られて、動揺したというわけか」
ガーネットが頷くと、彼は考え込むような表情になる。
「そもそもオスカーはなんの目的があって、君に声をかけてきたんだ?」
「それなのですが……私にもわからないんです」
「わからない?」
怪訝な色を浮かべる彼に、頷いてみせる。
「彼は『再会を喜んでいる』とは言っていましたが、それ以上のことは……」
「今の君がどういう状況にあるか、あの男も知っているだろう。そのことについては何もなかったのか」
「はい。『やっと見つけた』……とだけ」
その言葉が何を意味するのか知りたくなくて、ガーネットはあえて考えないようにしている。
ヘルバルト伯も何かを感じ取ったのか、それ以上のことは聞いて来なかった。
「オスカーの目的はわかりませんが、私がヘルバルト伯様の元にいることは知られてしまいました。おそらく今後、ご迷惑をおかけすることになるでしょう」
ガーネットは手のひらをぎゅっと握り締めた。この言葉を口にするのは、とても勇気がいる。
「……そうなる前に、私を解雇してください」
沈黙のあと、帰ってくるのは、静かな声音。
「解雇されたあとはどうする。行く当てでもあるのか」
「それは……」
返答に窮する彼女を見て、ヘルバルト伯はため息を漏らした。
「君が仕事をこなしている以上、私に解雇する理由はない」
「ですが」
「起きてもいないことを話し合っても仕方ないだろう。今は何も考えずに、体を休めろ」
そう言ったきり、彼は口を閉ざしてしまった。それが優しさだとわかるだけに、ガーネットの胸は締めつけられる。
(私、どうしてこんなに苦しいのかしら)
胸の中で湧き上がる感情がわからなくて、翻弄されるのが怖くなる。
ひとつだけ確かなのは、自分はヘルバルト家の使用人を辞めたくないと思っていることだ――