6.仮面舞踏会
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仮面舞踏会当日。
会場へ向かう馬車の中でガーネットは、緊張の面持ちを浮かべていた。
数日かけてヘルバルト伯と共に王都入りし、極力誰とも会わないようにここまで来たが、本当に自分でよかったのか、今さらながら不安になってくる。
「そう怖がるな。黙っていれば君がフルーベル家の人間だとは分からない」
目の前に座るヘルバルト伯が、淡々と言いやった。
どうやら仮面を付けていても気づかれるくらい、こわばった顔をしていたようだ。
「申し訳ありません。着く頃には落ち着くようにしますので」
「別に謝らなくていい。それより、ドレスや靴に問題はなかったか。ハンスに揃えさせたのだが」
「はい。サイズもぴったりでした」
ガーネット自身が持っていた(普段着用以外の)ドレスは、フルーベルの邸を出たときにすべて置いてきたため、身に着けるものはすべてヘルバルト伯が誂えてくれた。
王都にいたときは父の意向もあり色もデザインも華やかなものを身に付けていたが、今は華やかさはありつつも、落ち着いたブルーグリーンが上品なドレスを纏っている。
「……っている」
ヘルバルト伯が何か呟いたが、よく聞こえない。
「すみません、何とおっしゃったか聞き取れず」
「よく、似合っている」
確かに彼は、そう言った。仮面をつけているせいで、表情はうかがい知れないけれど。
驚いて沈黙するガーネットに、決まりが悪そうに。
「同伴相手に、それくらい言うのは礼儀だろう」
「……ありがとうございます。私もこのドレスが気に入っています」
「社交辞令はいい。君が持っていたものの方が、よほど高価であることくらいわかってる」
「私は値段の話をしているのではなく、好きかどうかの話をしているのです」
つい言い返すと、仮面の奥で灰銀の瞳が見開かれた。
ガーネットはドレスに施された繊細な刺繍をそっと撫でる。
「この刺繍の花、スノウドロップがモチーフですよね」
「……すまないが、私は花に疎いのでな」
「雪の中に咲く、白い可憐な花です。私はまだ実物を見たことがないので、冬になるのが楽しみで。北の地にふさわしい、素敵なドレスだと思います」
話を聞いたヘルバルト伯は「そうか」としか言わなかったけれど、その声はほんの少しやわらいでいた気がした。
今日の彼は正装をしているせいで、端正ないで立ちに磨きがかかっている。
仮面をつけていてさえにじみ出る、大人の男の色気は、きっと多くの女性が放っておかないだろう。
そう思うとなぜだか少しだけ、胸の奥がちりりとする。
(そういえば彼は、どうしてまだ未婚なのかしら)
年齢的にいえば、とっくに妻や子供いてもおかしくないだろうに。
北の国境地帯はたびたび隣国との諍いがあったと聞いているし、結婚どころではなかったのかもしれないが……
などと考えているうちに、いつ間にか馬車は宮殿に着いていた。
先に降りたヘルバルト伯が、手を差し出す。
「さあ行こうか、スノウ」
「ありがとう、ドロップ」
降り立った先で花火が上がり、人々の歓声が上がった。
煌びやかに着飾った者たちが、視線を送り合いながらすれ違う。
ここは誰もが顔を隠し、何者かを忘れる場所。
互いに嘘の名を呼び、ひとときの秘めごとに興じよう。
仮面舞踏会が、始まる。
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「やあこれはこれは。貴殿がこういった場に来られるのは珍しいですな」
会場内で声をかけてきた紳士に、ヘルバルト伯は軽く会釈してみせた。
やはりこういった場で彼の風貌は目立つ。さっきのでもう、五人目だ。
「先ほどの方はお知り合いですか」
「顔を隠しているのに分かるわけないだろう」
「相手の方はヘル……貴方が誰かわかっているようでしたが」
「それなんだが……。なぜ私だと分かるんだ?」
困惑するヘルバルト伯を見て、ガーネットはちょっとおかしくなった。
この人は自分がどれほど目立つ容姿なのか、まるで自覚がないようだ。
「さあどうしてでしょうね。私も不思議です」
「……君、もしかして面白がっていないか」
「そんなことはありません。私も正体に気づかれないよう、気をつけなくては」
そのとき、宮廷音楽士たちが軽やかな曲を演奏し始めた。
ダンスの始まりに、紳士淑女が優雅にステップを踏み始める。
「私たちも踊りましょうか」
ちらりと隣を見上げると、ヘルバルト伯はなぜだか沈黙している。
「どうかされましたか?」
「……実はここ数年、まともにダンスを踊っていなくてな。その……君に恥をかかせることになるかもしれない」
「あ……そういえば普段、社交場にはお出にならないのでしたね」
「国境地帯は何があるかわからないからな。私が領地を空ける機会は極力減らさなければならない」
ヘルバルト領から王都までは最低でも二日はかかる。雪の季節ならもっとだ。
貴族のたしなみとはいえ、そう何度も来られるわけがないのだろう。
「それでしたら、無理に踊らなくても良いのではないでしょうか」
「だが、君もつまらんだろう」
「私のことはお気になさらないでください。皆さんが躍っているのを見るのも、楽しいですし」
むしろフルーベルの令嬢として参加しているときは、常に誰かに話しかけられ、ダンスに誘われていたので、息つく暇もなかった。
「なるべく目立ちたくないのもありますし……。こういった場でゆっくり時間が過ぎていくのも、悪くないものです」
「そうか。ならば君の言葉に甘えよう」
しかし、主催者である国王が姿を現してからは、そうもいっていられなくなった。
ヘルバルト伯が来ていることに気をよくした国王が、皆の前で踊るようと言い出したのだ。
「私はダンスはあまり……」
辞退しようとするヘルバルト伯へ、近くにいた仮面の男が言いやった。
「国王直々に仰られているのだぞ。まさか断るなどと言うまいな?」
また別の仮面が言う。
「待て待て。彼がどなたかは存じないが、ダンスを踊れないのかもしれない。なにせ北の地は粗忽者の集まりというからな」
あちこちで笑い声が上がった。
我慢できなくなったガーネットが口を開こうとするのを、ヘルバルト伯に止められる。
「やめておけ。こういうことは慣れている」
その声は随分と静かで、彼が本当に慣れ切っていることが伝わってくる。
けれどそのことがさらに、ガーネットの心を抉った。
(ヘルバルト伯様のことを何も知らないで……)
彼女はすっと背すじを伸ばすと、おもむろにヘルバルト伯の手を取った。
「ドロップ、踊りましょう」
驚きに満ちた灰銀の瞳へ、そっと囁く。
「大丈夫です。私に合わせてください」
聞いた彼は、小さく頷いてみせた。
音楽が始まり、二人はホールの中央へと歩み出る。
最初はゆっくりとターンを描きながら、優雅に。
曲の盛り上がりに合わせ、徐々に速く、華麗にステップを踏んでいく。
(思った通り、さすがの身のこなしね)
元々、優れた身体能力の持ち主なのだろう。
最初こそぎこちなかったものの、ヘルバルト伯はガーネットのリードにうまく対応し、息の合った動きを見せている。
次第に彼と踊るのが楽しくなり、曲が終わる頃には名残惜しささえ覚えるほどで。
夢中になって踊り終え、気がつくと二人を取り囲む仮面たちが、呆けたように見つめていた。
何事かとヘルバルト伯を見ると、彼の瞳はまっすぐにこちらを向いていて、どきりとする。
「二人とも見事だ!」
手を叩き始めた国王に、他の者たちも追随しはじめる。
大きく響き渡った拍手は、しばらくの間鳴りやまなかった。