2.二つの選択肢
目を覚ましたガーネットが最初に見たのは、白塗りの見知らぬ天井だった。
寝かされていたベッドからそろそろと体を起こし、辺りを窺ってみる。
質素ながらも、清潔感のある部屋。しかしどこを見ても、見覚えはなかった。
(私、あれからどうしたのかしら――)
盗賊に襲われたところを助けられ、自分が騙されていたと知ったところまでは覚えているものの。
そこから先はどれだけ記憶をたぐり寄せても、出てこない。
ひとまずここがどこか確かめようと、ベッドから降りて窓の方へ近づき、目を見張る。
「あの山……もしかしてピンネル山脈?」
この国にある高山といえば、北の国境地帯にあるピンネル山脈しかない。
王都からは姿すら見えない山々の稜線が、今は間近に迫っている。
(北の地というと、確か……)
そう考えたとき、背後でドアの開く音がした。
振り返ると、メイドらしき装いの若い女性が、こちらを見て目を丸くしている。
「ああよかった、目が覚められたのですね!」
「あ……はい」
「心配しました。ここへ来られた時は酷い熱で、丸二日も眠られていましたから」
そんなに長く眠っていたとは。
戸惑うガーネットをよそに、彼女はロゼッタと名乗り「今お水をお持ちいたしますね」と出て行こうとする。
「あの」
「はい?」
「ここは、どこなのでしょうか。ピンネル山脈に近いということは、北の地……ヘルバルト領だとは思うのですが」
「ええそうですよ。旦那様のご邸宅です」
「えっ……ということは、私を助けてくださったのはヘルバルト伯様なのですか」
ロゼッタは今さら何を聞くのだろう、と言った様子で頷く。
「はい。旦那様が王都からご帰還される際に、通りがかったと」
つまりあの時見た、灰銀の男がヘルバルト辺境伯ということだろう。
王都に住む貴族は大抵見知っているガーネットだが、北の国境地帯を治め、社交場にもほとんど出てこない辺境伯の顔を知る機会はなかった。
彼がどういう人なのかはわからないが、行き場のないガーネットを保護してくれたのだから少なくとも、いい人ではあるのだろう。
「もしよろしければ、辺境伯様にご挨拶をしたいのですが」
「あっそうですね。えっと……その前に、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「私はガーネット……フルーベルです」
フルーベルの名を出すことを一瞬躊躇したのは、不安定な身分を明かすのが怖かったから。
ロゼッタは大して気にする様子もなく、
「ではガーネット様が目覚められたことを、旦那様に報告してきますね」
と言って今度こそ、部屋をあとにした。ほどなくして戻って来た彼女に身支度を手伝ってもらい、ヘルバルト伯の執務室へ案内される。
「ガーネット様をお連れしました」
部屋に入ったガーネットを待っていたのは、やはりあの時の男だった。
灰銀の髪と目。年齢は十七であるガーネットより十は上だろうか。
驚くほど整った顔立ちではあるが、そこに親しみやすさや温かみは一切感じられない。
(まるで氷のような人だわ……)
ヘルバルト伯はこちらを一瞥してから、ロゼッタに下がるよう言いつける。
未婚であるガーネットに配慮したのだろう、彼の傍らには見知らぬ男性が同席していた。見たところ、辺境伯より少し年齢が上だろうか。
「私はリヒト様にお仕えしている、執事のハンスと申します。失礼ですが、貴女はフルーベル侯爵家のご令嬢でお間違いないですか」
「はい。ガーネット=フルーベルと申します」
ガーネットはドレスの裾を摘まんで、貴族令嬢らしく挨拶をしてみせる。
「この度は危ないところを助けてくださり、ありがとうございました」
ハンスがちらりと隣を窺った。
黙ったままこちらを見据えていたヘルバルト伯は、ここで初めて口を開いた。
「身体の具合はもういいのか」
「はい。随分眠っていたようで少しふらつきはしますが、直によくなるかと」
短く頷いた彼は、ガーネットの目前まで歩み寄ってくる。
高身長のヘルバルト伯に近寄られると、思わず後ずさりしたくなるような圧迫感だ。
彼は感情の見えない目でこちらを見降ろしたまま、唐突に、何のためらいもなく告げた。
「フルーベル侯爵令嬢。これから君が選べる道は二つ。使用人としてこの屋敷に仕えるか。今すぐここから出ていくか」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
沈黙したままのガーネットに、彼はもう一度、低く言い放つ。
「聞こえなかったか? 使用人になるか、今すぐ出ていくか。どちらかこの場で選ぶといい」
ガーネットが見上げる先で、灰銀の目が微動だにせず見降ろしている。そこに籠る昏いものに気づいたとき、彼女はようやく理解した。
(この人は、私に行き先がないことを知っているんだわ)
受け入れ先もなく、帰る場所も失くした、没落令嬢。
それがわかった上で、彼は二択を迫っているのだ。
使用人になるか。出ていくか。
元侯爵令嬢であるガーネットにとって、これ以上の屈辱はないと、知った上で。
(……思い出した)
意識を失う寸前、この人にどこかで会ったような気がしていた。
すっかり雰囲気が変わっていてすぐには気づかなかったが、彼は一度フルーベルの邸宅に来ている。
幼かった彼女は、彼がヘルバルト家の人間だとは認識していていなかったが――
ガーネットはゆっくりと、吐息を漏らした。点と点が、昏い線で繋がっていく。
これほどまではっきりとした拒絶を、投げつけてきたのだ。おそらく父とヘルバルト伯の間で、何かがあったのだろう。
実際あの日以来、彼がフルーベル家を訪れたことはないのだから。
(きっとこれは、復讐なのでしょうね)
それならば、ガーネットが選ぶ道はひとつだ。
彼女は背筋を伸ばすと、改めてヘルバルト伯に向き合った。
「分かりました。今日から使用人としてよろしくお願いいたします」
それを聞いたハンスが、息を呑む。
「本当に、よろしいのですか」
「ええ。どうせ行き先などありませんから」
目前の男に、嘲笑めいた笑みが浮かんだ。
「そこまでして命が惜しいか。侯爵令嬢の誇りとやらは君にはないようだな」
「いけませんか?」
見据えた先で、無表情に戻ったヘルバルト伯は視線を逸らす。
「言っておくが、君が令嬢だろうと特別扱いはしない。使えなければ解雇するまでだ」
「肝に銘じておきます」
貴族の誇りを持って野垂れ死ぬほうがマシだと、母ならいうかもしれない。
けれどガーネットは自分の命に使い道があるうちは、まだ死ぬわけにはいかなかった。
(もし父が彼の人生に影を落としたのなら、私にできることがあるかもしれない)
何も知らない自分に何ができるのかと、笑われるかもしれない。蔑まれ、こき使われ、惨めな一生を送ることになるかもしれない。
それでも現実から目を背けて生きることだけは、もうしたくなかった。
きっとこれは、父の罪を知ろうともせずに甘い蜜に浸りつづけた、咎なのだ