14.蜘蛛の糸
◇◇
ヘルバルト伯からの返事がないまま、一週間が経った。
ガーネットは庭園の雪かきをしながら、ため息を吐く。
(あれから、ひと言も話してないわ……)
ここのところ彼は家を空けることが多く、忙しくしているという。
たまに顔を合わせても、挨拶をかわすだけだ。
「やっぱりご迷惑だったのかしら」
あの時のヘルバルト伯は、明らかに様子がおかしかった。
わがままを言ったせいで、優しい彼を困らせてしまったのだろう。そう思うと、申し訳なさで穴に入りたくなる。
それでも、彼女は後悔していなかった。
あのまま何も言わずこの邸を離れるなんて、耐えられそうにない。
(それに、約束したもの)
雪の合間にのぞく、小さな蕾。
スノウドロップの花が、あと少しで見られそうなのだ。
せめてこの花が咲くまでは、ここにいたい。そう願い今日も庭園の手入れしていると、門の方から誰かが歩いてくるのが見えた。
「そういえば、今日は庭師の方が来る日ね」
あの熊のようなシルエットは、父親の方だろう。思ったより、腰が早く治ったようだ。
大きな上着に、目深にかぶった毛糸の帽子。ただでさえ大きな体躯が、着込んでいるせいでさらに大きく見える。
「おはようございます。腰が良くなられたようで、なによりです」
庭師の男はもごもごと何か言いながら、白樺の木が並ぶほうへ入っていった。
この雪の中で剪定でもするのだろうか……不思議に思いつつ、ガーネットも付いていく。
どこまで行くのだろうと、声をかけようとしたときだった。
突然振り向いた庭師が、彼女に覆いかぶさってきた。
悲鳴を上げようとして、口を塞がれる。
途端に力が入らなくなり――意識が遠のいていく。
そのまま抱きかかえられ、視界が閉ざされた。おそらく上着の下に隠されたのだろう。
帽子の下に一瞬見えた顔は、庭師の男ではなかった。
■
どれくらい眠っていただろう。
夢の中で、誰かが呼んでいる。まだここにいたいと思うのに、意識が浮上していくのがわかる。
「――やあ、お目ざめかな」
聞き覚えのある声に、ガーネットは目を開いた。
身体を起こそうとして、ぐらりと視界が回る。
「駄目だよ。薬がまだ抜けていないんだから」
冷汗をにじませながら、声のした方になんとか顔を向けた。
椅子に腰かけたオスカーが、うっすらと笑みを浮かべてこちらを眺めている。
「……ここはどこ」
「僕の隠れ家。場所は言わないけどね」
彼は鷹揚に立ち上がると、ガーネットの傍に歩み寄ってきた。
逃げようとしても、身体が上手く動かない。
その様子を見て微笑んだオスカーは、指先を伸ばし彼女の頬をなぞった。
「やっと君をここに連れてこられた」
ガーネットは顔をそむけながら、必死に抵抗する。
「どういうつもりか知りませんが、今の私はヘルバルト伯様にお仕えしています。すぐに帰してください」
「帰さないよ。君はこれからここで、僕のものになって暮らすんだから」
「……え?」
今オスカーは何と言ったのか。
混乱するガーネットに、彼は肩をすくめた。
「大体、もっと早くこうなるはずだったんだ。君が行き場を失くしたところで、ここへ連れてくる手筈になっていたのに……あいつが邪魔をしたから」
この男の言っていることが、まるでわからない。
そのとき、ガーネットは部屋の隅に立つ人影に気がついた。どこかで見たことがある顔だと記憶をたどり、戦慄する。
「あなた確か、修道院の仲介をしてくれた――」
そこまで言って、ようやくすべてを悟った。
偽の仲介者。襲われた馬車。存在しなかった修道院。
「……全部、貴方の計画だったのね」
「はは、そうだよ。落ちぶれた君を表立って囲うわけにもいかないだろう? 盗賊に攫われたことにすれば、誰も行方なんて探さないし名案だと思ったんだけどな」
つまりあの時襲われたことも、計画の内だったということなのだろう。
オスカーは黒豹のような目に、濁った光を宿した。
「それなのに、あの男が通りがかったせいで計画が狂ってしまった」
本当はすぐにでもガーネットを奪い返したかったが、ヘルバルト伯一行のガードは固く隙が無かったのだと言う。
「その後君の消息が途絶えたときは、正直焦ったよ。あいつが秘密裏にどこかへ逃がしたのかと思ってたけど、そんな情報も出てこないし。だから舞踏会で君を見かけたときは、心底驚いたし嬉しかったけどさあ……」
彼は一旦息をついてから、憎々しげな視線を向けてくる。
「君が哀れで仕方ないよ。まさかあんな奴の使用人にされていたなんて」
「勘違いしないでください。彼は行き場のない私を、雇ってくれたんです」
「はっ、まさか慈善活動だとでも言うつもり?」
オスカーは鼻で笑いながら。
「そんなわけないだろ。あの時のあいつを見た? 『俺のものに触るな』とでも言わんばかりだったじゃないか」
「そんなはずありません」
「ああ君は本当に初心なんだね、ガーネット。引きこもり辺境伯の卑しい下心にも気づかないなんて」
「やめて!」
怒りに打ち震えるガーネットの髪を、オスカーはゆっくりと撫でた。
その手に触れられるたびに、肌が粟立つのがわかる。
「もう君はあんな男の元で惨めな思いをしなくていい。僕の妾として、一生可愛がってあげるから」
「……勝手なこと言わないで」
こちらを見降ろす彼を睨みつけ、ガーネットは言い放った。
「私はヘルバルト伯様をお支えすると決めたんです。貴方の妾になるつもりなどありません」
「本気で言っているのかい? あいつは君のことを使用人として扱っているじゃないか」
「使用人だろうと関係ありません。私があの方のお傍にいたいのです」
一瞬の沈黙のあと、オスカーの目に酷薄な色が映った。
「……君は本当に、僕の劣情を煽るね」
突然、彼の手がガーネットの喉を押さえつけ、強く圧迫した。
息ができず悶える彼女の耳に、抑揚のない声が届く。
「まあいいよ。どのみちここから出すつもりはない。君が自分の立場を理解できるよう、後で躾けてあげるから」
まとわりつくような視線に、全身が総毛立った。
震え出したガーネットを見て彼は薄ら笑みを浮かべ、部屋から出ていく。
「ああ、助けが来るなんて期待しないほうがいいよ。ここは身内すら、知らない場所だから」
がちゃりと音が鳴り、扉が施錠されたのがわかった。
(ここから逃げなくちゃ)
ふらつく身体を無理やり起こし、出口を探そうとするが思うように動けない。
足を引きずりなんとか確認してみたものの、窓には鉄格子がはめられとても出られる状態ではなく、唯一の出口は施錠された扉のみだと分かっただけ。
何もできないまま時間だけが過ぎ、気がつけば陽が落ち始めていた。
「嫌……」
焦りと恐怖で、ガーネットの心は追い詰められていた。
夜になれば、オスカーはここへ来るだろう。
このまま彼のものにされ、一生ここに閉じ込められると思うと、心が壊れてしまいそうだ。
――あの男の好きにされるくらいなら、死んだ方がましだ。
彼女の中で悲愴な決意が固まろうとしたとき、窓の外で大きな爆発音が鳴り響いた。




