13.初雪
北の地に、初雪が降り積もった。
目の前にそびえるピンネル山脈は真っ白に染まり、一夜にして世界が一変したかのようだ。
雪化粧がほどこされた庭園を、ガーネットは感慨深く見つめる。
「綺麗……」
朝陽を浴びてきらきらと煌めく銀世界に、思わずため息が漏れた。
待ち望んだ冬の到来に、自然と心が浮き立ってしまう。
しばらく見とれていると、ヘルバルト伯が通りがかった。
「どうした、そんなところに立って」
「雪が綺麗なので、眺めていました」
隣に来た彼は、なるほどと言った様子で。
「そうか。王都ではほとんど降らないから珍しいのか」
「はい。こんなに積もったのを見るのは初めてです」
「もう少ししたら、うんざりするくらい降るぞ。しばらく見たくないと言うくらいな」
いたずらめいた視線に、「夢を壊さないでください」と掛け合う。
ふと、彼が首に巻いたマフラーに手をかけたので、慌てて止める。
「大丈夫です。寒くありませんから」
「……ではこうしよう。私は暑くなったので、君がこれを預かっていてくれ」
そう言って問答無用でマフラーを巻き付けてくる。
もこもこにされたガーネットは小さくため息つき。
「そのように仰られたら、断われないじゃないですか」
「私のほうが、一枚上手と言うことだ」
むうと頬を膨らませ、それを見たヘルバルト伯が笑う。
日々かわされるなんでもない会話が、ガーネットの胸を温かくしてくれる。
「あとで紅茶をお淹れしますね。今日は冷えますので、少しスパイスを効かせたものにします」
「ああ。君が淹れた紅茶は美味いからな。楽しみにしている」
そう言って、ヘルバルト伯はいったん沈黙したあと。
ちらりとこちらを窺った。
「そのときに、少し話をしたい。……君の今後についてだ」
「えっ……」
今後というのはどういう意味だろうか。
解雇の二文字が頭をよぎり、ガーネットの中に不安が湧き上がる。
「そう心配するな。悪いようにはしない」
ヘルバルト伯は微笑を浮かべ、彼女の頭をぽんとやった。
最近は何も言わなくても、考えていることを読み取られてしまう。
そのうち彼に対する気持ちまで見透かされそうで、ガーネットは気が気でない。
「ではまた後で」
去っていく背を、呆けたように見つめる。
白い吐息が、曇り空に溶けていった。
■
「――養女、ですか……?」
ヘルバルト伯の執務室で、ガーネットは思わず訊き返した。
紅茶を口にしていた彼は、小さく頷く。
「私の知人で、君を養女にしたいという者がいてな。口の堅い、信用できる人間だ」
そこでならオスカーの目も届かず、王都にも戻る必要が無い。
安心して暮らせるはずだと、説明を受ける。
「養女になれば君も下働きなどせず、まっとうな生活ができる」
「お待ちください。私は使用人の仕事を嫌だとは思っていません」
即座に言い返した彼女を、灰銀の目が静かに見つめていた。
養女になってしまったら、もうここにはいられない。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
「本来ならば、今の状況が異常なんだ。高貴な生まれの君を、使用人にするなどあってはならないことだった」
「私が自分の意思で選んだことです。後悔もしておりませんし、今の生活が私は好きなんです」
「そう言ってくれるのはありがたいが、私が耐えられそうにない」
ヘルバルト伯は椅子から立ち上がると、ガーネットの目の前まで歩み寄ってきた。
その表情は、さまざまな感情が行き交っているように見え。
「これまでの非礼、本当に申し訳なかった。……君には幸せになってもらいたい」
「……私の幸せは、ここで暮らすことだとしてもですか」
それを聞いた彼の瞳が、大きく揺らいだ。
「何を言っている。令嬢の君が、こんなところにいて幸せなはずがない」
「何が幸せかは私が決めることです。それとも私がいては、やはりご迷惑なのですか」
「そういうことを言っているのではない。ここにいたら君に危険が及ぶかもしれないから――」
わかっている。
すべては彼の優しさだということを。
「……嫌です」
ガーネットは胸の前でぎゅっと手を握りしめた。
ここで素直に受け入れるのが、互いのためなのだろう。
けれどそれでもここにいて良いと、ここにいて欲しいと、言ってほしかった。
「私の幸せは、ヘルバルト伯様をお傍でお支えすることです。それ以外に、あり得ません」
はっきりと言い切った先で、ヘルバルト伯は唖然と立ち尽くしていた。
一瞬の沈黙のあと、冷然とした顔が見る間に紅潮し、うろたえはじめる。
「君は、何を……」
そう言ったきり、口元を片手で覆うと、黙りこんでしまう。
ガーネットは重ねて言い募った。
「わがままだということは、重々承知しています。ですがヘルバルト伯様、お願いですからここにいさせてください」
「……少し、考えさせてくれ」
彼はやっとのことでそう言うと、逃げるように奥へ引っ込んでしまう。
それ以上はどうすることもできず、ガーネットは仕方なく部屋をあとにした。
◇◇
ガーネットが出て行ったのを確認し、リヒトはそろそろと息を吐いた。
動悸は未だおさまらず、目の前がちかちかする。
「この程度で動揺するとは、我ながら情けないな……」
ここのところずっと悩み続け、ようやく出した結論だった。
自分の傍に置いていては、彼女は幸せになれない。
断腸の思いで手放すことを決め、努めて冷静に告げたはずだったのに。
(まさか、あそこまで拒まれるとは)
使用人になるときでさえ、潔く受け入れたのだから、今回もすんなり話が進むだろう。
その予想が覆されるどころか、彼女の口からあんな発言が飛び出し、リヒトの精神はあっさり限界突破したのだった。
「駄目だ、もう……」
これ以上は無理だ。どうやったって、ごまかせそうにない。
リンゼンの街で、彼女は微笑みながら言った。
――リヒト様を、ずっとお傍でお支えします。
あのとき、この嘘が真実ならどれほどいいだろうと思った。
そして今日、ガーネットは言ったのだ。自分の幸せは、リヒトを傍で支えることだと。
その言葉の意味を理解した瞬間、歓喜に胸が震えた。
(認めざるを得ない)
彼女のことが、愛おしくてたまらない。
誰かの手に渡すなど、考えられない。自分のものに、してしまいたい。
どれほど目を背けても、もうこの気持ちをなかったことにするのは無理だ。
立ち上がったリヒトは、窓の外を眺めた。
朝はやんでいた雪が再び降り始め、ちらちらと粉雪が舞っている。
「決断しなければならないな……」
いつまでも、彼女を待たせるわけにはいかない。
あの花が、咲くまでには。