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10.消えない傷

 ◇◇


 ガーネットが出て行った部屋に残されたリヒトは、しばらくの間何も手に付かなかった。

 周囲の声がけにも上の空、机に座り微動だにしない様子を見かね、ハンスがやれやれと言いやる。


「リヒト様。そっとしておこうと思っておりましたが、敢えて申し上げます。ガーネットさんに対して、()()はいけません」


 ようやく反応を示したリヒトは、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「……聞いていたのか」

「あれほど言い争っていれば嫌でも聞こえます。私でよかったとお思いになってください」


 他の使用人が聞いていたら、どうなっていたか。

 ハンスはこんこんと言い募る。


「あのようなやりとりは、痴話喧嘩です。彼女が使用人であることを、お忘れになっているのではありませんか」

「そんなことはない」


 そもそも使用人にすると言ったのは自分なのだ。誰よりその意味と責任は理解している。

 それなのに、近頃はどういうわけか彼女のことが気になって仕方ない。

 姿が見えなければそれとなく探し、危ないことをしていないか、確認しなければ気がすまない自分を持て余してさえいる。


(俺は一体、彼女をどうしたいんだ……)


 あの庭師が彼女に触れようとした瞬間、我を失った。

 あんなことをしてしまった自分が、今でも信じられない。

 ハンスは深くため息を漏らすと、諭すように言いやった。


「もういい加減、お認めになったらいかかです」

「なにをだ」

「ガーネットさんに特別な感情を抱かれているのでしょう?」


「……は?」


 この男は、何を言っているのか。

 寝耳に水といった様子のリヒトを見て、ハンスは再びため息を吐く。


「まさかとは思っておりましたが、ご自覚がなかったのですか……」

「いや待て。お前は一体なんの話をしている?」

「リヒト様はガーネットさんに、好意を抱いていらっしゃると申し上げているのです」

「そんなはずは」

「ではお聞きしますが、今彼女を手放せますか」


 ぐ、と言葉に詰まった。

 イエスと言えない。

 ガーネットを手放すことなど、まるで考えていない自分に、嫌でも気付かされる。


「よいですか、リヒト様。ガーネットさんがここにいることを知られてしまった以上、このままで良いはずがありません」

「……わかっている」

「この先彼女をどうなさるのか、よくよくお考えになってください」


 ハンスはそう言ってから、急ににっこりと微笑んだ。


「私どもは歓迎いたしますよ。ガーネットさんなら、ヘルバルト家当主の妻をご立派に務められるでしょう」

「なっ……からかうのはよせ」

「からかってなどいません。私たちはリヒト様がこのまま一生独り身でないかと、本気で心配しているのですから」


 ハンスの言葉は耳に痛かった。

 もう三十が近いというのに、結婚しようとしない当主を、邸の者たちが心配しているのはわかっている。

 けれど。


「フルーベルの娘だけはあり得ない。……もう二度と、あんな思いは御免だ」


 それを聞いたハンスは、気の毒げに目を伏せた。


「やはりあの件を、引きずっていらっしゃるのですね」


 フルーベル家との関係に亀裂が入った、七年前の出来事。

 一人娘との婚約を散々引き延ばされた挙げ句、一方的になかったことにされた。

 おそらく、他に良い縁談が舞い込んだのだろう。

 あの時の屈辱と娘に対する劣情に、振り回される自分が情けなかった。


「あの時のリヒト様はまだお若かった。それにガーネットさんは縁談のことを、ご存じないと思いますよ」

「ああそうだろう。彼女にはなんの非もないからこそ、知らないままでいてほしいんだ」


 初めて会ったときのガーネットはまだ幼かったものの、花のように愛らしい姿と聡明なまなざしが、忘れられなかった。

 きっと美しい女性になるだろうと、当時のリヒトは未来の彼女に焦がれ、婚約を楽しみにしていた。

 ヘルバルト家が娘との婚約をダシに利用されていただけだと知ってからは、淡い恋心も純粋な想いも、すべて無くなってしまったが。


 ……いや、無くした()()()()()()


(まさか大人になった彼女と、あんなところで再会するとは思わなかった)


 助けた相手がガーネットだとすぐに分かったが、向こうは自分のことを忘れているようだった。

 だからなるべく優しい言葉はかけず、自ら出ていくよう仕向けた。

 彼女に泣いてすがられたら、きっと拒めない。

 けれど、もしかしたら――


 過去の劣情と、憐れみと、ひと粒ほどの期待が入り混じり、あんな発言をしてしまった。

 いっそ憎まれようとすらしていたのに、ガーネットは使用人をあっさり受け入れ、使用人達とも打ち解け、リヒトの役に立とうと努力さえしている。

 そんな姿を見ているうちに、彼女に対して抱いていた屈折した想いも、いつの間にか消えていた。

 それどころか、彼女を――


(いや、これは一時の気の迷いだ)


 久しぶりに会ったガーネットが想像通り美しくなっていたから、動揺しただけのこと。

 彼女がいなくなれば、すぐに忘れる程度のものだ。


「ガーネット=フルーベルをどうするかは、近いうちに答えを出す」


 オスカーのことも気がかりだし、彼女を隠し続けるにも限界があるだろう。

 いずれにせよ、このままではいられない。


「承知しました。お分かりかと思いますが、彼女にはなるべく早く謝罪なさったほうが良いですよ」

「……わかっている」


 目に涙を浮かべて出て行った彼女を思い出すと、胸が強く痛んだ。


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