笑顔の記憶
「あの・・。私」正直に告げるつもりで、言い淀んで唇を噛み締めた。
そんな私を食い入るように見つめるジュード。
「あなたの記憶だけが戻らなくて。それと、私はたぶん・・以前の私とは違う気がするの」
「違うとは?」
「なんというか・・性格が悪くなったと思う」
「どんなふうに」
「説明するのが難しいのだけど・・記憶をなくしてから、なんでも疑うようになった感じで」
「わからないな」
「そうよね。でもたぶん、あなたの知ってるアリスじゃなくなった気がするの」
「それで?」
「だから、あなたが私を好きでいてくれたのかさえわからないけれど、今の私を好ましいとは思えないのではないかと・・」
「君が変わったことを知る機会さえ与えられていないのにわかるわけがない」
「そ、そうよね」
でも「家族に『アリスはジュードのことが好きでしょうがなかった』と聞いたの。今の私にはそれがわからないし、私が好かれていたのか嫌われていたのかさえわからないから・・」
「アリスの話し方は僕との婚約を解消したがっているように聞こえる」
「っ!」その通りだ。ジュードを好きでしょうがない自分を演じられないのだから。
「このままずっとジュードのことを思い出せなかったらどうしようって不安で。ジュードを大好きじゃないアリスはあなたには必要ない気がするの」
「僕は・・婚約を解消したくない」
「え?」
「まだ混乱していてどう言えばいいのかわからないけど、アリスの婚約者でいたい」
「う、うん」
それ以上何も言うことを思いつかず、また明日と告げて帰宅した。
□ □ □
今日から授業のある通常の学園生活が始まる。ジュードのことも、新しい私と仲良くできるか努力してみようと思う。まだ肌寒いので、白いワンピースの上にカーディガンを羽織る組み合わせにした。学年によって下校時間は異なるので、行きはお兄様と一緒でも帰りはバラバラになることが増えそうだ。
教室に入るとウイリアムがいたので、できるだけ端っこのほうに寄って、記憶喪失の経緯を説明する。ジュードを思い出せないことにびっくりしていたけれど「僕に出来ることがあればいつでも協力するから」と励ましてくれた。
授業が始まるギリギリにジュードが私の隣の席に座る。気まずい気持ちを抑えて「おはよう」と笑顔で挨拶すると、ちゃんと「おはよう」と返された。
ランチの時間を使って、シャーロットと話したかったので、お互いランチバスケットを持参して、中庭の隅のほうのテーブルを見つけて座る。
「で?」
「ジュードのことが思い出せないの」
「あんなに大好きなジュードを思い出せないなんて」
「家族みんなに同じことを言われた」
「ジュードとウイリアム、私とアリスで遊んだこともあったじゃない。そういう記憶はどうなってるの?」
「ウイリアムとシャーロットと遊んだ記憶はあるの。でもその中にジュードの記憶はなくて」
「じゃあ去年、4人でうちの領地の湖で遊んだ記憶はある?」
「・・ぼんやりとあるような・・」
「その中に私やウイリアムはいる?」
「うーーん・・」
「ジュードを交えて遊んだような記憶は全て曖昧ってこと?」
「そうなのかなあ」
「なんでそんな不思議な記憶喪失になるの?」
「やあ、アリス」突然聞こえた低音の艶声に驚いて目を上げるとテオがいて、シャーロットの隣に座った。
「ジュードのこと忘れたんだって?」
「うう。アーサーお兄様ね」
「今、その話を聞いてたところよ」
「あんなにジュードのことが好きだったのにね。婚約は解消するの?」
「とりあえず今は解消しないことになったの」
「なんだ。婚約解消したら僕と婚約してもらおうと思ったのに」
「ソウデスカ」
「なにその感情のない答え方」
「挨拶がわりに婚約するのが趣味なのかと」
「シャーロット、アリスがひどい」
「アリス、こう見えてテオ兄様は誰にでも婚約を申し込んでるわけではないのよ」
「あ、そうなの?」
「だって、ほとんどの令嬢が了承しちゃうじゃない」
「そうね、挨拶がわりに婚約申し込んでたら今頃何百人という婚約者がいるわね」
「そうよ、だから絶対にオッケーしない女性にしか申し込まないのよ」
「なんだか不憫だわ・・」
「俺って可哀想なの?」
「テオが心から愛せる女性に出会うことをひっそり応援するわ」
「だから今アリスに申し込んでるんだよ」
「アリガトウゴザイマス」
「アリスが天使じゃなくなった」
ぼそっと呟かれた言葉に、ああやっぱりと落ち込む。アリスなら可愛く笑って「嘘でも嬉しい」とか言うんだろう。やっぱり私は性格が悪い。気づかれないように心の中でため息をついた。
テオと別れ、シャーロットと教室へ向かっていると、前を歩いている男子がハンカチを落とした。
拾って後ろから声をかける。
「あの、ハンカチ落としましたよ」
自分だとは思わないのか、なかなか振り返ってもらえず、3度目に声をかけたときにやっと振り向いた。
ハンカチを見て、私を見て、その男子は固まる。
「あの・・?」
「はい!」
「ハンカチ、あなたのですよ・・ね?」
「はい!」返事はものすごくハキハキしているものの、ハンカチを受け取ってくれない。
「えっと・・はい、どうぞ」と改めて差し出せば、やっと受け取ってくれたけれど、目線は固まったまま私を凝視している。シャーロットが私の手を掴んで「行くわよ」と引っ張ったので会釈だけして立ち去る。
「じろじろ見るなんて失礼だわ」と少し怒っているシャーロットに「ねえ、さっきの男子のこと私は忘れてるのかな?」と尋ねると「私は初めて見たけど?」と言われ、それならば私も初めて会った可能性のほうが高いだろうなと思いながら曲がり角で振り向くと、まだ立ちすくんだままの彼がいた。
教室に戻り、自分の席に向かうとジュードが机に片肘をついて窓から外を眺めていた。その姿が様になっていて見つめていると、振り返って「アリス?」と不思議そうに私を見た。
その「アリス?」という声がふわっと優しくて、なんだか切なくなる。
なんでもないと首を振り、視線を下げた瞬間、記憶の中のジュードが優しく笑う顔が浮かんだ。
「!!」初めて見たジュードの記憶に衝撃を受ける。なんて優しい笑顔なんだ。記憶喪失を告げて以降、ジュードのこんな笑顔を見たことがない。この特別な笑顔はきっと、アリスだからこそなんだろう。そんなことを考えていたら、俯く私の顔をジュードがしゃがんで覗き込んでいた。
「!!」びっくりして思わず仰け反る。
「アリス?」今度は少し硬い声だ。
「あ、ごめん」と周りを確認してみると、誰も私達の近くにはいなかったので、
「今、一瞬だけど記憶の中のジュードが見えたの」
「!!」ジュードが息を呑む。
「ジュードの笑顔だけだったけど、初めて思い出せた」アリスの感情は一切伴わない記憶だったから、期待させたくないなあと思う。だけど、記憶のジュードの笑顔に釣られたのか、つい微笑んでしまった。
「ア・・リス」少し掠れた声で私の名を呼ぶ。
やめて、期待しないで。私はあんな優しい笑顔を向けてもらえるアリスじゃない。
「ごめんね」そう言ってジュードから目をそらした。