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ひらひら

作者: Yoshi

 あれは小雨の降る夜のことでした。

 連日続いた猛暑とは打って変わって、少し肌寒く感じる夜のこと、やけに寝付くことができず、一人、街灯の下煙草を燻らせていると、不思議な体験をしてしまいました。


 大学三回生になり、学業もさることながら、就職に向けて日々を費やし、友人にも会うことなく、夏季休業を過ごしていました。

 キラキラとした大学生活とはほど遠く、泥臭く堕落した生活と、そうするしかできない自身に嫌気が差し、前向きな気持ちを失いかけていたと思います。

 どこからかやってくる漠然とした不安が、眠りを浅くし、生活の色を奪っていく。燻らせる煙が、命を燃やす灯火かのように、私の生力を暗い紺碧の空へと吸い取っていく。そんな感覚に支配されていました。


 私は習慣的に、寝付けないと感じる夜には、無理をして身体を横にするのではなく、眠気を感じるまで、ただ、ひたすらにぼうっと、過ごすことがありました。

 その日もいつも通り、まだ暗い窓の外を眺め、眠気やってくるのを待っていたのですが、二時、三時と時計の針は進むばかりで、一向に眠気はやってきませんでした。

 私は、気分転換を兼ね、散歩がてら煙草でも吸いに行こう。そう思い、薄手のパーカーを羽織り、外へと赴きました。

 後々考えてみれば、これも誘われたのでしょう。無意識的に呼び声に応えてしまった。今ではそうとしか考えられません。


 玄関を開けると、その肌寒さに一瞬鳥肌が立ちましたが、直ぐに慣れ、外の世界へと足を踏み出しました。

 近隣の家屋は既に灯りを落とし、夜の帷が降りて、静けさだけが辺りを満たしていました。

 いつも見慣れた街並みでも、夜になれり人気が消えると、やけに不気味に感じるもので、あらぬことを想像しては、少しぞくっとするような、そんな感覚も好きで楽しんでいました。

 あそこの角から誰かがこちらを覗いているかもしれない。ぬうっと人影が目の前を横切るかもしれない。考えるだけで、まるで噺屋の怪談を聞いているような、そんな感覚が好きでした。


 適当な街灯の下、煙草に火をつけ、ふーっと一息つき、辺りを見渡す。そして、いつも通り妄想をはじめました。

 ですが、その日はやけに妄想が捗りませんでした。

 あそこの角から、もしかしたら自分の後ろに、そこから一向に物語が思いつかないのです。

 脳が考えることをそのものを拒絶しているような、そんな感覚さえしたのです。

 不思議なこともあるもんだ。そう思い、とりあえずこの一本を吸い切ったら帰ろう。私はペースを上げ、ただひたすらに煙草を燃やしていました。

 灰と吸殻を携帯灰皿に落とし込み、さて帰ろう。と、大きく深呼吸をした時、足の先から頭の先まで、全身を撫でるような寒気が、私を襲いました。

 外気の寒さゆえのものではない、身体の内から感じる寒気です。ものすごい速さで鳥肌が立ち、その場に立ちすくんでしまう。そんな寒気です。

 これはなんだ。理解のできない感覚ではありましたが、私には覚えがありました。

昔、不慮の事故に遭い意識を失いかけた際、同じような寒気に襲われたことがあります。

 今回は事故でもなんでもない、ただ夜中の外で、こんな寒気に会うことなんてそんなことは。

ここで私は嫌なことに考えがたどり着いてしまいました。


 もし、この立ちすくむような寒気が、事故を引き金に起きるのではなく、生死の境に瀕した時に感じるものであれば。そうだとすると、先ほど想像が捗らなかったことも合点がいきます。人間は本当に起きそうなこと、良くないものを想像することを潜在的に避けようとする自己防衛の本能があると聞いたことがあります。

 まさか、と自分の思考を笑い飛ばそうとしましたが、それは次の瞬間叶わないものとなってしまいました。


 自分のいるところから、三つ先の街灯の下、ゆらゆらと左右に揺れる黒い人影のようなものが立っていたのです。


 私は全身の毛穴が開き、呼吸が浅く、早くなるのを感じていました。

 見てはいけないものを見た。間違いなくこの世のものではない。そう感じたのです。

 こんな時間といえど、出歩いている人はいるかもしれません。しかし、それは人間というにはあまりにも不可解な動きをしていました。

 上半身が風に靡く紙のように左右にゆらゆら、ゆらゆらと揺れているのです。

 その場から動くような気配はありませんが、それが何よりも怖く感じました。ただその場にいるだけで確実にこちらに恐怖を与える存在は、不気味で、えも言えぬ不快感を感じました。

 一刻も早くこの場を離れなければ、そう思い、黒い影とは反対方向へと踵を返すのですが、ここで私は、いらぬ興味を抱いてしまいます。


 この世のものでない異形が、どんな姿形をしているのか見てやろう。


 人間追い詰められると笑ってしまう人、真逆の行動をとってしまう人がいると聞きますが、私も漏れなくそう言った人種の一人だったのかもしれません。

 あの異形の顔を、一眼見てから帰ろう。このままでは人に話すときにも、ただ漠然と怖いだけの話になってしまい、面白みに欠ける。

 先ほどまでの恐怖とは打って変わって、得体の知れないものへの興味が、私の心を支配していました。

 そして、その異形の方向へと向き直り、目を凝らそうとすると、異形の黒い影が先ほどより大きくなっているような気がしたのです。

 あれ、と思ったのも束の間、私は気がついてしまいました。


 異形のいる街灯が先ほどより一つ近くなっているのです。


 一瞬目を離しただけで、音もなくこちらに近づいてくる。間違いなくこの世のものではないと、改めて確信しました。

 同時に、異形の姿を先ほどより鮮明に見ることができました。それは、上半身が文字通り紙のように薄く、ひらひらと風に靡くが如く揺れているのです。

 しかし、先ほど遠巻きに感じて揺らぎに比べ、明らかに激しくなっていました。

 まるで、その一部分だけ台風の中に置かれているような、それほどまでに激しく揺れていたのです。

 好奇心は一瞬で私の心を離れ、再び恐怖が全身を支配し始めました。

 本当にまずい。このままここにいれば、なにが起きるかわからない。

 先ほど考えた最悪の事態が頭をよぎります。もし、あの異形に接触した場合、私はこの世から消えてしまうのではないか、あるいは、捕り殺されてしまうのではないか。

 考えれば考えるほど足が竦み、逃げの一歩を踏み出すことができません。

 そうしている間にも、先の異形は激しく左右に身体を揺らし続けています。

 私は瞬きも忘れ、ただ異形を注視することしかできませんでした。


 永遠にも感じる数分間、無言の睨み合いが続いた中、ふと異形の奥に光が見え、そちらに目線をそらしてしまいました。

 トラックのような軽バンのような、ともかく自動車が奥で右折か左折をした際の光が、私の目に飛び込み、私はそれに反応してしまいました。

 その刹那、再び全身を舐めるような寒気が襲います。


 異形はまた一つ、距離を詰めてきたのです。


 途端、先ほどまで感じていなかった不快な異臭が鼻を突きました。

 この手の話によくある腐臭ではなく、新鮮な肉の匂い。理科の実験で豚の目の解剖なんかをしたことのある人ならわかるでしょうが、あれと同じ匂いがするのです。

 猛烈な吐き気と不快感、そして怠さを感じていました。

 また距離が縮んだことで、今まで黒い影だと思っていた異形の形を鮮明に認識することができました。

 異形には頭部が存在せず、代わりに、左手に当たる部分に球状のものを持っているのです。

 私はすぐにそれが、頭部であるということに気が付きました。紙のように薄い上半身に対し、その頭部はしっかりと形を保ち、目のような窪みからは、鈍く街灯の光を反射し、こちらを見ているような気さえしたのです。

 これ以上距離を詰められたらまずい。間違いなく何かが起きる。

 自分の身体になんとか動くよう指示を出しますが、なかなかに動きません。鉛のように重くなった足は、ピクリともせず、口は乾き切った砂漠のように、微かに呼吸音のみを発するのみで、声のひとつも出ません。

 例えるならば、金縛りにあったときの感覚に似ていました。


 そんな私を動かしたのは、一匹の虫でした。

 街灯の下はその明るさから、多くの虫が飛び交っています。その中でも一際大きな蛾のようなものが私の眼前をフッ、と横切りました。

 それをきっかけとして、私の身体は堰を切ったダムのように一気に動き出しました。

 ダッ、地面を蹴り上げ、自宅のある方向へ、息をするのも忘れるほど全力で走り抜けました。後ろを振り向くことなく、ただひたすら足の回転が落ちないよう、全身全霊で雑巾を絞るように力を込め、前へ、前へと走り続けました。


 気がつけば、自宅の目の前の交差点まで戻ってきていました。

 感覚という感覚が鈍り、今にもその場に座り込んでしまいそうなほど、意識が朦朧としていました。

 おそらく私は、走っているうちに酸欠に近い状態になっていたのでしょう。

 ともあれ、あの異形からは逃げおおせた。その安堵の気持ちで、大きく深呼吸し、呼吸を整えようとしました。

 スーッ、と大きく息を吸うと、私はハッ、としました。


 まだ先程の不快で新鮮な肉の匂いがするのです。


 まさか。と、思うと同時に私は後ろを振り向いてしまいました。

 今思えば、なんでその場からすぐに離れなかったのか、振り向きなどせず一目散に家に帰るべきだったろうに、悔やんでも悔やみきれません。

 振り向いた先には何もなく、ただ真っ暗闇が広がっていました。

 なんだ、何もないじゃないか。私はホッと胸を撫で下ろします。感覚が過敏になっていただけか。そう自身に言い聞かせ、家へ帰ろうと再び顔を上げます。

 しかし、おかしいのです。目の前に広がるのは真っ黒な闇。先ほど通ってきた交差点も、街灯のあかりさえ見えないのです。


 あっ。


 私は気が付いてしまいました。


先程の異形の、薄い、薄い上半身が、私に覆い被さるようにそこに居たのです。


 私はその場に倒れ込むように気を失いました。

 倒れ際、異形の左手に抱えられた頭部が、私を見てニヤッと笑った気さえしました。



 気がつくと私は自室のベッドに横になっていまいした。

 既に夜は開け、朝日が窓から差し込んでいました。

 昨日のあれは夢だったのか。

 不思議な体験もあるものだと、いつも通りの生活をはじめました。

 顔を洗い、朝食を作り、テレビをつけ、夢のことなど忘れてしまおう。と。

 寝ぼけた頭で、ニュースを流し見しつつ朝食を食べていると、聞き流すことのできない内容に一気に目が覚めました。


 「昨夜、〇〇駅付近の資材圧縮工場にて、男性が上半身を巻き込まれる事故が発生しました。男性の遺体は頭部と下半身を残し、上半身のみがプレス機に挟まれるようにして亡くなっていたとのことです。警察はこの事故について……」



 あれは本当に夢だったのでしょうか。

 夢でなければ、あの異形はいったい私に何を伝え、何をしようとしていたのでしょうか。

 思い返せば返すほど不気味で、気持ちの悪い私の体験談です。


 余談ではありますが、あの日私が吸ったはずの煙草と携帯灰皿が今だに見つかりません。

 どこかに置いてきてしまったのでしょうか。


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