魂喰らい
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
古来、人間の魂は、異世界の住人にとって、嗜好品であった。西方の悪魔、東方の妖怪、北方の怪物、南方の悪鬼。彼ら、人間にとって得体の知れない存在は、ふらふらと、街に出向いては、人間の魂を喰らい、あるいは、森や海で、じっと待ちながら、訪れた人間の魂を喰らった。
今、この寂れた街にも、燕尾服にシルクハットを被った悪魔の一人が、夜な夜な街中を彷徨いながら、まるで、人間がウィンドウショッピングでもするかの如く、行き交う人間の魂を、品定めし、賞味していた。
「ぺろりと…。」
前を歩く男の背中に、悪魔が、右手を向けて、何かを掬い取るような仕草をすると、突然、男は、胸を押さえ苦しみ出した。
「うっ…。」
「どうしました。おーい誰か来てくれ!?」
通り掛かりの職工が、倒れていく男の体を支えていたが、そのとき既に、男に息はなかった。
「ごちそうさま。」
通行人が騒ぐ中に、シルクハットの悪魔の姿は消えていた。
今までに、この悪魔は、1000年の時を過ごし、9999人の魂を喰らってきた。
「あと一人といきたい所だが…。」
10000人目の食事を求めて、悪魔は、街を彷徨っていた。しかし、この街は、一昨年から始まった流行病の影響で、人間の数が、半分以下に減っていた。今では、大通りにも、空き家が目立ち、営業している商店は、数える程となっている。
「なかなか、いないな。」
悪魔にとってのごちそうは、健康な若い人間の魂であった。病人や老人の魂は、弱く酸味が強い。一方で、幼子の魂は甘すぎる。
「いた。」
そんな獲物を狙う獣のような悪魔の目の前を、ちょうど、少し痩せた背の高い青年が歩いていた。
「少し若いが、まあ良しとしよう。」
悪魔は、青年の背中に右手を向けた。
「きゃあ。」
そのとき、突然、青年の目の前に、刃物を持った暴漢が一人現れて、不意に、青年が発した悲鳴は、うら若い女性のようであった。
「助けて下さい…。」
青年の声が聞こえた。
「おい、兄ちゃん。何見てんだ!」
通り掛かりの悪魔にそう言った暴漢は痩せて、ふらふらしていた。悪魔は、挙げていた右手を、暴漢に向けると、そのまま何かを掬い取り、そのまま、握りしめた。
「うっ…。」
悪魔が右手を下ろすのと、同時に、暴漢は、顔を白くさせて、地面に倒れてしまった。
「大丈夫ですか…?」
それを見た青年は、恐る恐る、倒れた暴漢に手を伸ばした。それと同じく、悪魔もまた、右手を青年の背中に伸ばした。
「すみません。そこのあなた、この方が、突然、倒れてしまって…。」
悪魔の方を、振り向いた青年の顔は、女性の顔であった。女性が振り返ると、右手を伸ばしかけていた悪魔は、そっと手を下ろした。
「その人間は死んでいますよ。」
「えっ!?」
そう一言だけ悪魔は、女性に告げた。
「大変!?すぐにお医者さまを連れて来ないと。申し訳ありませんが、あなたは、ここにいて下さい。」
そう言うと、夜の闇の中、悪魔を置いて女性は、大通りを走って行った。
「心臓発作のようですね。残念ながら、もう、息はありません。」
「そうですか…。」
女性に言われて、巡査が連れてきた医者が聴診器を男の胸から外していた。
「この方は、貴方のお知り合いですか?」
巡査は、女性に顔を向けた。
「いいえ。たまたま、通りかかっただけです。」
「では、こちらの方は?」
今度は、巡査は、悪魔の方に顔を向けた。
「この男は、そちらの方を襲おうとしていた強盗ですよ。」
「えっ?」
悪魔がそう答えると、巡査は、驚いたような顔をしていた。
「そこに刃物が落ちているでしょう。」
「本当だ。」
巡査の足下には、暴漢が出した刃物が、そのまま地面に落ちていた。
「今、署に連絡をします。お二人には、駐在所の方で事情をお聞かせしてもらいたいのですがよろしいでしょうか。」
巡査は、ちらっと、悪魔の顔を見た。
「あいにく、私は、急ぎの用事があります。事情は、今、言った通りです。」
「私も、病の母が家で待っていますので…。」
「そうですか。では、連絡先を教えてもらえませんか?」
「ええ。」
巡査が差し出したペンを受け取ると、女性は、警察手帳に、連絡先を書いていた。
「そういえば、この男も、病にかかっていたようですよ。」
「えっ?」
悪魔がそう言うと、巡査の傍らにいた医者が驚いたような顔をした。
「本当だ。喉に腫脹がある。すぐに、消毒をしなければ。」
すぐさま、医者と巡査が、慌ただしそうに動き回り始めたが、その間に、悪魔は、現場を立ち去った。
「すみません。」
夜と云えども大通りは、数人の人たちが歩いている。しかし、その誰もが、痩せて衰えているようであった。すれ違う人たちを尻目に、悪魔が歩いていると、先ほどの女性が、急ぎ足に、後を追ってやって来た。
「一言、お礼を言いたくて。どうもありがとうございました。」
そう言うと、女性は、悪魔に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「ひとつ質問をしてもよろしいですか?」
「はい。何でしょうか。」
悪魔がそう言うと、女性は、下げていた頭を上げた。
「何故、あなたは、あの男を助けようとしたのですか?あの男は倒れなければ、きっとあなたを殺していたことでしょう。」
「いいえ。そんなことはありません。あの方を見たとき、一目見て、あの人が流行病にかかっていることは分かりました。私は、今も、母が家で、流行病に臥せっていて、その看病をしています。夜道を思って、男の方の格好をしていたのですが、それでも、あの方は、私に刃物を向けてきました。きっと、流行病で、苦しい暮らしをしてきたのでしょう。」
そう言う女性の手は震えていた。
「そうだ。これをどうぞ。」
震える手を押さえて、女性は、紙袋の中から、赤い林檎をひとつ取り出して、悪魔に渡した。
「それでは。」
そうして女性は、もう一度、頭を下げると、悪魔に背中を向けて、その場を立ち去って行った。女性から林檎を受け取った悪魔は、右手を去り行く女性を背中に向けた。
「やめておこう。」
悪魔は、挙げていた右手を下ろすと、代わりに、左手に持っていた林檎を、ガブッと一齧りすることで、小腹を満たすことにした。
お人好しの魂喰らいの悪魔は、今夜もまた、人間の魂を求めて、街を彷徨っていることだろう。