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【光の降る廃墟6(神咲直夜)】

 激しい雨音がして、少しだけ気温が下がった夕方のことだ。


 呼び出しのベルが鳴った。玄関の扉を開けると、そこに立っていたのはアリスだった。 制服が濡れている。少し寒そうだ。泣きはらしたのだろうか。真っ赤な目をしていた。


 しばらくじっと足元を見つめていたが、決心したように、ぼくのほうを見た。


「今、大丈夫ですか」

「大丈夫じゃありませんね」


「もしかしたら、お客さんでも」

「……いえ、そういう意味ではなく」


 男性教師が、女子生徒を家にあげるという行為は、許されることではない。わかっていて、やってはいけないことをするのは、頭のおかしな人間しかいない。


「なかなか大胆ですね。殺人疑惑のある男のところに、一人で来るなんて」

「……信じてますから。先生はそんな人じゃないって」


 彼女はわかっているのだろうか。

 目の前にいる男が、まともな人間ではないということを。


「信じていただけるのは嬉しいのですが、ぼくは君が考えているような聖人ではありませんよ。それでもよろしければどうぞ」


 扉を大きく開けた時に、こっそり覗いてる男子生徒の姿が見えた。また彼が、ずっとぼくたちのことを監視しているようだ。知らないふりをして、彼女を部屋にあげる。




 バスタオルを渡して、ぼくがホットココアを用意している間、彼女は部屋のあちこちに視線を飛ばしていたが、じっと目を留めたのは、小中高のアルバムが並んでいる小さな本棚だった。


「卒業アルバムが、そんなに気になりますか」

「い、いえ」


「もしかして、ぼくがたぶらかしたかもしれない、女子生徒や先生の写真が欲しくて、家探しに来たマスコミの回し者だったりしますか」


 アリスは慌てたように、必死に首を横に振っている。いちいち動きが小動物のようで可愛らしい。噴き出してしまいそうになるのを、必死にこらえていた。


「先生の部屋、全然荷物ないんですね」


 部屋には、ベッドと小さな本棚、あとは最低限の家電と、荷物を片付けるつもりで出していたスーツケースぐらいしかない。


 ミレニアムモデルでロゴは違うが、昔、未来先生が使っていたものに形と色が似ていたから、学生時代に、衝動的に購入したものだった。


「産休の期限が終わったら、またすぐに引っ越しをするつもりだったからね」


 スーツケース一つで、世界中を旅していたこともある。身軽であることは得意なほうだった。幼い頃に両親も亡くなっていて、もう帰るべき実家もない。


 ぼくはずいぶん前から、根無し草だった。そんなぼくに、手を差し伸べてくれたのが先生だった。大事な恩人を汚したのは、ぼくだ。一生許されない罪を、ぼくは背負っている。


 アリスが壁に貼られた、廃墟写真を見つめて言った。


「いつから写真を始めたんですか」

「本格的に始めたのは、うちの高校の廃墟研究部に入ってからです」


「じゃあ、先生に写真を教えた人って……」

「どうやら君のお母さんのようですね」


 アリスは写真をじっと見てから、ふっと微笑んだ。


「不思議ですね。母から教わった先生に、私が教わるなんて。運命のようなものを感じます」


 運命という言葉が胸に刺さる。

 ぼくだってそう思っていたんだ。あの時までは。


「そうだ、廃道さん。記念に撮ってもいいですか」

「記念?」


 ぼくは一眼レフカメラを手に取った。アリスの顔にピントを合わせる。最近買ったばかりのデジタルカメラだが、もう使う機会もなさそうだ。


 最後に廃墟以外を撮るのも悪くないだろう。


「いつか君が、有名なカメラマンになったら、マスコミに高く売りつけたいと思うので」

「そんな才能はありませんし。残念ですけど、いくら撮っても、価値はゼロ円ですよ」


 無邪気に笑うアリスは、ぼくと目線が合うと恥じらった。その瞬間をとらえてシャッターを切る。その表情は、ぼくの予想以上の代物だった。


「変顔が撮れたんじゃないですか?」


 茶化すようにアリスは、カメラのモニターを覗き込み、動きを止めた。


 画面に映るアリスは、長い睫毛の落とす影と、憂いを含んだ瞳が、やけに色気を感じさせた。きっと本人も、これまでに見たことがない、大人びた表情が切り取られていて、驚いていたのかもしれない。


 カメラのモニターを覗くぼくたちは、無意識のうちに顔が近くなっていた。

 目線が交わり、じっと見つめ合う。


 衝動的にアリスを押し倒していた。あの日のように。


 キスを覚悟したのか、ぎゅっと目をつむるアリスの表情が、とても愛おしかった。顔がギリギリまで近づいた時、廃墟で未来先生にキスをした、あの瞬間が頭をよぎった。


『こんなことをしても……人の心は手に入らないのに』


 先生の泣いている顔を、忘れられるわけがなかった。


 アリスのスカートから、携帯がこぼれ落ちた。着信音が鳴っている。

 ぼくは体を起こして、アリスから離れた。


「冗談ですよ。本気にしましたか」


 恐る恐る目を開いたアリスは、困惑した表情で、ぼくを見ている。目の前で、餌を取り上げられたリスみたいだなと思った。可愛すぎて、つい噴き出してしまった。


「成人男性の部屋に上がるということは、こういうリスクもあるということです。今後は気をつけた方がいいですよ。ぼくが言っても説得力はありませんが」


 アリスも慌てて起き上がり、制服や髪の毛の乱れを直している。必死に動揺を隠そうとしているが、かなり挙動不審で、頬も赤い。


「見なくていいんですか。急ぎの連絡かもしれませんよ。例えば、彼氏からとか」

「彼氏なんていません」


 アリスは携帯の通知をちらりと見ると、中身も確認せず、迷惑そうな表情をしている。


「信じられないな。女性はいつだって、男を落とすためなら、すぐに嘘をつくから」

「私は、嘘なんて……」


「そういえば昔、政略結婚の前に経験したいなんていう、捨て身の嘘をついてきた子もいたな」


 まさか本当に子供を産むとは思わなかったが、名前をつけてくれなんて、頼まれたことを思い出した。


 その子供には、一度しか会ったことはないけれど、まだ物心もつかないような子供が、夢中でぼくの廃墟写真を見ているのが、あまりに微笑ましくて、「いつかとっておきの廃墟に連れて行ってやる」なんて、つい約束をしてしまった。


 こんなことになった以上、きっと会いに行くこともないだろうし、その約束を果たすのは難しそうだ。


 床に転がっているカメラを取ろうとして、ぼくが手を伸ばした動きに反応して、アリスは一瞬ビクッと体を固くした。


 あまりに、わかりやすい。こんなにウブなくせに、よくもまぁ一人で部屋に乗り込んできたものだ。


 真正面からこない、姑息で卑怯などこかの男とは大違いだ。やはりこの娘は、見た目だけでなく、中身も未来先生に似たのかもしれない。


「そんなにビクビクするぐらいなら、もう帰りなさい。彼氏が心配していますよ」

「だから彼氏なんて」


「君の幼馴染の朝永あさながくんのことです。いつだって彼は君のことを見ていますから」

「彼氏なんかじゃ……ありません」

「でもあれは、彼女を守ろうとする、男の目だと思いますけどね」


 学校で、ぼくとアリスが一緒にいると、必ずと言っていいほど、いつも睨みつけてくる男子生徒がいた。さっき玄関の様子を伺っていたのも彼だ。


 昔から、とても覚えのある視線だった。


 ずっと幼馴染という安全地帯から、出ようとしなかったくせに、侵略者がやってきた途端に、自分のモノだと所有権を主張する、幼馴染という名の卑怯者たち。彼らが見せる特徴的な、ねっとりとした監視の目線だ。


 高校の頃、ぼくに逆恨みをして、学校に父兄を装って苦情電話をかけたり、あることないことを書き込んだビラを、近所に配りまくったのは、未来先生の幼馴染でもあり、夫となった廃道正義はいどう せいぎに違いなかった。


 あいつは用意周到だ。物的な証拠は残さない。けれど、ぼくが転校する日に、勝ち誇ったような目で、こちらを見つめていたあの目だけで、あいつだとわかった。


 きっと今回も、ろくでもないことをしたのは、アリスの幼馴染の朝永かもしれない。同じ目をしていた。


 自力で幼馴染との関係を変えることができなかった非力さを棚に上げ、相手を敵視するだけでは飽き足らず、執拗なまでに卑怯な手で引きずり落としてまで、心の平穏を手に入れようとする。


 愚かな男のささやかな反抗というやつかもしれない。


「いたいけな少年を惑わすために、ぼくを利用するつもりなら、もうやめなさい」

「そんなんじゃ……ありません」


 下を向いているアリスは、何かを言おうとして我慢したようだ。

 もう潮時だろう。ぼくは奥の机に向かう。新しい封筒に、付箋付きの写真を選びながら入れていく。


 小さな付箋には、彼女に対するアドバイスを書いてあった。コンテストを目指す上で、本当に役に立つかはわからない。


 だが、不本意な形とはいえ、最後にこの程度のプレゼントを渡すぐらいは、運命の神様も許してくれるはずだ。


「君に渡そうと思っていた写真がいくつかあるので、帰る時に持って行ってください」


 静かに近づいてきたアリスは、携帯の画面を操作して、見せつけるように手を差し出した。


「私……ずっと気になっている人がいたんです。その人はブログに、廃墟の写真ばかり載せていました」


 画面には廃墟ブログが表示されている。


「これ先生が書いてるブログですよね」




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