廃墟で殺されるのにうってつけの日30(廃道善人)
八月八日は、とても暑い日だった。
青空が広がっていたが、夏特有の、背の高い入道雲が徐々に大きくなり、白さを主張し始めていた。
汗だくになりながら、神戸市の摩耶山中腹にある摩耶観光ホテルに到着した。
廃墟の女王と謳われるだけはある。壊れているのに美しいと感じさせる、矛盾こそが正義と思わせる場所がいたるところにあった。
僕は才能もないくせに、夢中になって写真を撮影した。
目的の場所に足を踏み入れる前に、必死に心を落ち着けようとしていたのかもしれない。やっぱり僕はビビリなんだなと自覚する。
やっと覚悟を決めて、僕はサンルームがあるフロアに足を踏み入れた。
奥にあるサンルームには、天井まで届く大きなガラスが、アーチ状になっていた。窓の外の緑は青々としていて、何度も写真で見た場所であることには、間違いなかった。差し込む光が、神々しくさえ感じられた。
窓際に置かれた椅子に、気だるそうに座っているのは、髪の長い女性だ。後ろ姿だけで、誰だかわかった。
ずっと会いたかった人だ。間違うわけがない。
「やっと見つけましたよ、先輩」
こちらを振り返って、ゆっくりと立ち上がった先輩は、まるで天使か悪魔のような、人間離れをした美しさだった。その猟奇的な神秘性に、しばらく見とれてしまった。相変わらず、見ている人の息を止めるような魔術を、使っているのかもしれない。
無意識のうちに、頬には涙が流れ落ちていた。
みっともない僕に、負けじと張り合っているのか、窓の外では、天気雨が降り出したようだ。どこかで虹が出ているかもしれない。
きっと僕たちの再会を、祝ってくれるつもりだろう。たまにはこの世界の神様も、粋なことをするらしい。
「ここに来たということは、私を殺す決心がついたということか」
僕は首を横に振り、赤いスーツケースを、先輩の目の前で開けた。
「これは、神咲直夜が、僕の母と心中するために、用意したのと同じものです」
中にはブルースターの花びらがいっぱい入っていた。
「でも本当は心中するためではなく、プロポーズをするために、用意したものだったのかもしれません。二人で逃避行をして、幸せに暮らすという道があったはずです。最後の最後まで、迷っていたんじゃないでしょうか。先輩が僕を殺すかどうか迷っていたように」
上着のポケットから出した、古いパスポートを見せる。
「僕の父がずっと、捨てられずにしまいこんでいたものです。母のパスポートには、いくつものチケットが挟まっていました。行き先は、海外の有名な廃墟がある地域ばかりです」
取り出したチケットを、先輩に見せた。
「母はそのチケットを使わなかった。きっと母は、父や家族を裏切ってまで、自分だけが幸せになる道を選べなかったのかもしれない」
母の名前だけではない。片方には、神咲直夜のローマ字が刻まれていた。
「純粋でまっすぐなくせに、優しすぎて、壊れやすくて。誰にも何も言わずに、痛みを心の中に、しまいこんでしまうような、母はそういう人だったみたいだから」
優しい人は、心が壊れて溺れそうになっている人に手を差しのべる。
溺れている人を助ける鉄則は、自分は飛び込まないこと。
なのに優しい人は、どうしても見ていられず、自ら飛び込んでしまう。相手のすがろうとする力が強すぎれば、どちらも沈んで、溺れてしまうことになったとしても。
「きっとどこに逃げても、父の呪縛から逃げることはできないと、母は悟っていたのかもしれません」
父への恐怖は、母自身の罪悪感が生み出すものだ。過去の罪が消えない限り、逃れる方法はなかったのだろう。
「だからこそ、神咲直夜は、母の苦しみを断ち切るために、二人で死ぬことを選んでしまった。残念ながら父が邪魔をしたせいで、二人は一緒に旅立つことすら、できなかったみたいですが」
神咲直夜のささやかな、最後の望みすら、叶うことはなかった。そして姉は巻き添えを食らって死んだのだ。
「もし母がそのチケットを選んでいれば、みんなの未来は変わっていたかもしれません。僕も先輩と、会うこともなかったでしょう。でも出会ってしまった。それは変えられない事実です。だからこそ、先輩には選択を誤って欲しくないんです」
初めて出会った時に、僕の声が震えた理由は、先輩があまりに美しすぎて、一目惚れをしただけではない。先輩が殺すべき相手だとわかってしまったからだ。
その時点で、僕たちの未来が、ろくでもないものになる予感はしていた。
「きっと神咲直夜が、先輩に『希望』と書いて『みらい』と読む名前をつけたのも、僕の母への未練だけじゃないと思います。たとえ、ろくでなしな男だったとしても、娘の人生に、未来が、希望が、明るい道が待っていることを、きっと願っていたはずです。だから、いくら先輩が目的を達したからといって、その命を終わりにするなんて、誰も望んでいません」
生まれながらに呪われていて、酷い道しか用意されていないと、それが運命だと言われても、僕は諦めない。何があっても、未来を諦めないことにした。先輩に、この命と心を救われた時に。
「僕は殺すぐらいなら、殺される方を選ぶ男です。ビビりでみっともない残念な男です。でも、それでいいと思っています」
何度も先輩を殺そうと思ったことはあった。
いつか殺してやる。僕の母と姉をたぶらかした神咲直夜を。僕の人生を歪めた男を。それができないのなら、その子供すら殺してやる。そう思いながら、生きてきた。
ナイフをお守りみたいに、常に隠し持つことで、正気を保っていた。
でも、できなかった。
そんなビビリな自分を誇りに思う。本当に良かった。先輩を殺さなくて。
「これまで積み重ねられてきた人類の血筋の中で、誰一人として、誰一匹として、殺しをしたことのないような、真っ白で汚れていない、まともな人間なんて、きっとどこにもいないと思います。だって僕たち人間は、ずっとこれまで、他の生き物を殺して、生き続けて来たのだから」
生きるために、ずっと殺してきた。
自分のために。誰かのために。何かを殺してきた。
それが多いか、少ないかだけだ。
「でも、だからこそ、生きる以外の目的で、殺してはならない。誰かを憎いからって、復讐をするのは違うと思うんです。誰かがどこかで、殺すことをやめなければ、連鎖は止まりません。この世から誰もいなくなるまで、殺し続けて、誰が残りますか。そんな世界で生きていて、誰が楽しいのですか」
先輩の瞳が揺れていた。
僕の言葉は、届いているだろうか。
「私はもう、こんな世界で生きていたくはないんだ」
まだだ。僕は諦めない。人生を放棄しない。彼らのようには。
「僕は先輩と生きたいです。呪われた血筋だとしても、僕は僕として、これからの未来を先輩と歩いてみたいです。八月八日という日が、ずっと素敵な日だったなって、おじいちゃんや、おばあちゃんになってからも、思えるように。そのチャンスを僕にください」
先輩は困ったような目で、僕を見ている。
「なんであんなことをした」
「あんなこと?」
「小説だよ。なぜそこまでするんだ。私の父の疑惑は晴れたが、代わりに君の父親の名は汚れたぞ」
「真実を明らかにすることに、理由なんていりますか?」
「……本当にバカだな、君は」
先輩が呆れたように、空を仰ぐ。
窓の外で小鳥が飛び立ち、緑が揺れた。
「まさか、これからずっと殺人犯の子供として生きて行くつもりか」
「それなんですけど、ほとぼりが冷めるまで、一緒に遠いところに旅に行きませんか。先輩に撮影してもらいたい廃墟が、いっぱいあるんです」
僕は新しいチケットを出した。行き先は、かつて神咲直夜が、母に渡した物と同じだ。
「いっぱい見に行きましょう。世界中にある、壊れているのに綺麗な場所を」
チケットを手に取った先輩は、行き先の地名を見て、すでに廃墟を思い浮かべているのだろうか。遠い異国で待っている廃墟を、どう撮影しようと考えているのかもしれない。
「戻ってくる頃にはどうせ、もっと酷い事件が起こって、僕たちのことなんて忘れ去られてますよ」
先輩が僕の瞳をじっと見据えて、ズボンのベルトに手をかけた。
「え、ちょ、なにを」
ポケットに手を入れると、あの時と同じように、小さなナイフがあった。
もう必要ないのに。習慣というのはなかなかやめられない。
「君には何度もチャンスをやっただろう。私を殺すタイミングを、山のように与えたのに。なぜ君は殺さなかった」
「だから言ったじゃないですか。僕は何があっても殺さないと」
赤いスーツケースの、花びらの中から、小さな指輪ケースを拾い上げ、蓋を開けた。
指輪には、八月の誕生石のペリドットがついている。太陽の宝石とも言われる黄緑色の石は、小さいながらも光を反射して輝いていた。
「こんな安物で、私を買収できるとでも思っているのか。私との未来が欲しいのなら、最低でも、百億ぐらいの価値のある、宝石を持ってくるべきだろうな」
生活に困らないぐらいに、たんまりと賠償金を手に入れたはずなのに、相変わらずの守銭奴っぷりに、僕は笑うしかなかった。
だったら僕だって、ああ言えばこう言うだけだ。
「じゃあ百億を貯めるまで、ずっと先輩のそばにいます。僕が壊れそうな時、ずっと先輩が、そばにいてくれたように」
先輩はケースから、指輪を手に取った。
輪っかの向こうにいる、僕の姿を見据える。
「いつか君を殺すかもしれない女だぞ」
「それでもいいです。先輩になら殺されても。でもそれで、おしまいにしてください。もう誰も、僕以外は殺さないでください。あ、でも、できることなら、交尾中のメスに殺されるカマキリみたいに、一回ぐらいは、いい思いをしてから死にたいです」
先輩は噴き出すように笑った。
それは僕が出会った時から、大好きな笑顔だった。
「どこまで君はバカなんだ。だいたい私が、君なんかを、好きになるわけがないだろう。頭がおかしいのか?」
言葉とは裏腹に、先輩の頬には、一筋の涙が流れていた。
やっぱり、僕の先輩は頭がおかしい。
けれど、そんな先輩を好きな僕もまた、頭がおかしいのかもしれない。
「知らなかったんですか。人間なんて、みんな頭がおかしいんですよ。だから恋なんて、しちゃうんじゃないですか」
僕は先輩に駆け寄り、強く抱きしめた。
百億の愛をかけた、壊れかけの未来と希望を、約束するために。
光の降る廃墟での、初めてのキスは素晴らしかった。僕は生きていて、本当に良かったと思った。なのに。
一緒に手をつないで、サンルームを出て行こうとした時だ。
先輩が指輪を、陽の光に反射させるように見ながら、にっこり笑う。
「さて問題だ。君の暗証番号はなんだろうか」
「はい?」
「まさか、どこかの女々しい男と同じで、好きな女の誕生日にしてるんじゃないだろうな」
先輩がカバンから出したのは、僕の古い貯金通帳だった。いくら探してもないと思ったら、先輩が持っていたとは。さすが守銭奴。
「え、いや。っていうか、べ、別にそれは、その。僕と先輩は同じ誕生日なんだから、それ卑怯じゃないですか」
「なんだ、本当に、誕生日にしているのか。やっぱりバカだな、君は」
「あっ」
まんまと誘導尋問にひっかかってしまった。
「この中身が消えるかどうかは、君次第だ。せいぜい私を楽しませてくれよ。退屈したら、君を殺すかもしれないからな」
先輩はいつものように、天使のようで、悪魔のような笑みを浮かべる。
「冗談だよ」
やっぱり、僕の先輩は頭がおかしい。
そんな先輩が大好きな僕は、もっと頭がおかしい。
だからきっと、僕たちは世界で一番、お似合いに違いない。