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【光の降る廃墟1(神咲直夜)】

 八年前のあの日。


 ぼくはただ、一番好きなものを、一番好きな人と、一緒に見たかっただけなのに。


 先生は優しい人だ。ぼくが死をちらつかせれば、きっと断れない。

 わかっていた。だからその優しさを利用してしまった。


 入ることすら禁止されている廃墟で、会ってはいけない人と、二人きりで会う。禁断というシチュエーションに、ぼくは興奮し、酔いしれていた。


 高校生の男子には、その刺激はあまりに強烈すぎた。湧き上がる衝動を抑えきれず、気がついた時には、先生を押し倒していた。


 天井近くまである窓から、月明かりの光が差し込んでいた。床には赤いスーツケース、天使の羽が描かれた青い傘、一眼レフのカメラが転がっている。


 キスをした瞬間、すべてに絶望したような目をした先生は、一筋の涙をこぼした。


 割れた窓ガラスの外で、小鳥が飛び立ち、緑が揺れていた。




 期末テストが終わって、もうすぐ春休みという浮かれた空気が漂っている放課後だった。


 なごり雪というのだろうか。季節外れの雪が降り、しまいこんだコートを引っ張り出した日のことだ。


 美術室に入ってきた女子生徒は、赤いチェックのマフラーで顔の半分が隠れていた。まるで巣穴に隠れようとする小動物みたいだなと思った。


「神咲先生って、写真のコンクールで、賞を取ったことがあるって本当ですか」

「まぁ……一応」


 学生時代のことだが、それなりに有名なコンクールで受賞している。一度はプロを目指そうとしたこともあったが、今はこうして、ただの高校教師に収まっている。


「今年こそ写真コンクールで入賞したくて、アドバイスをもらえたらなーと思いまして」


 大人がみな良い人だと信じきっているような誠実な瞳は、今のぼくには眩しすぎた。


 高校生だった頃のぼくが、初めて先生に頼み込んで、写真を教えてもらった時も、こんな瞳をしていたのだろうか。


 どうしてぼくは、この学校に戻ってきてしまったのだろう。


 運命の歯車というやつは、時としてこれみよがしに、巧妙な嫌がらせを仕掛けてくるのが好きらしい。いろいろなタイミングが重なった。ただそれだけのことだ。


 だが、よりによって、この学校でなくてもいいだろうに。


 ろくでもない生徒として逃げ出したこの場所に。しかも、ぼくの大好きだった、未来みらい先生と同じ高校教師として。


「いいですよ。ぼくでよければ。と言っても、賞を取ったのはずいぶん昔だし、あまり役に立てるかどうか。今はただ趣味で、たまに廃墟を撮ってるだけですしね」


 ほんの気まぐれだった。どうせ産休の代理が、終わるまでの短い期間だ。暇つぶし程度のつもりだった。


 引き出しの中から、ポートレートとして、写真をまとめてあるファイルを見せた。彼女は、夢中で舐めるように写真を見つめている。


「私も、廃墟、好きなんです」

「そうなの?」


「実は、廃墟研究部に入ってます」

「なら、ぼくの後輩になるのかな」


 彼女は写真から顔を上げて、ぼくを見た。


「じゃあ先生は、うちの出身だったんですか」

「まぁ……途中で転校してしまいましたけどね」


 転校とは名ばかりで、悪質な噂のせいで、学校にいられなくなって、逃げ出しただけだ。


「転校かぁ。ずっと地元なので、転校生って、ちょっと憧れがあります」

「そんなに良いものではないですよ。ぼくはむしろ、幼い頃から根無し草だったから、ずっと地元にいられる人が羨ましいです」


 当時のぼくのことを、よく知っている校長や教師たちは、ここ数年で定年退職したらしい。生徒が追い詰められていても、何一つとして助けてくれなかった先生たちに、いまさら恩師ヅラなどされたくなかったから、顔を合わせずに済んでホッとしていたぐらいだ。


 逆に、むしろ久しぶりに会いたかった、未来先生の姿はなかった。当時は、廃墟研究部の顧問をしていたが、今はもう先生はいないようだ。さすがに騒動を起こした後では続けられず、ほかの学校に転任したのだろうか。


 女子生徒の鞄から、見覚えのあるメーカー名の入った、カメラ用のネックストラップが、少しはみ出している。


 学校名と『廃墟研究部』という文字が刻まれた、小さなキーホルダーがぶら下がっていた。昔、未来先生がお揃いで作って、部員に配ったものだ。今も伝統として残っているのだろうか。


「年季が入ってますね。見せてもらってもいいですか」

「どうぞ、母のお古なんです」


 彼女は鞄から一眼レフのカメラを出した。ぼくが初めて買った一眼レフと、同じ型だった。


 どうしても先生と同じものが欲しくて、お揃いのものを購入した、無邪気だった頃の記憶が蘇る。


 当時は、一番普及していたメーカーのモデルだから、よく出回っているだけかもしれないが、久しぶりに他人が使っているのを見て、懐かしくなった。


「普段は近くの公園をウロウロしてる感じで。最近は雨上がりを狙って、撮ったりもしてます」


 彼女は写真をまとめたファイルも見せてくれた。撮影された写真のほとんどは、公園遊具など金属系、神社や並木道など、ありふれた題材ばかりだ。それでもパッと目を引くセンスの良い写真が、中には混じっている。


「この雨が降った後の、水滴や空気感は、なかなか良いですね。金属も植物も、いい感じに艶が出てきますから」

「ありがとうございます。ただ私の場合は、母の写真をちょっと真似してるだけなんですけど」


 彼女は恥ずかしそうに、はにかんだ。


「夏休みは、宮城の化女沼レジャーランドに、母と一緒に撮影しに行きました」

「化女沼ですか。寂れた観覧車が有名な所ですね。ぼくも行ったことがあります。独特なフォルムと素朴な色合いが印象的でした」


「いいですよね。特にこういうところとか」


 嬉しそうに頷いた彼女は、ファイルをめくりながら、撮影した場所の説明をする。彼女が指摘する箇所は、ぼくが過去に、気に入ってシャッターを押したアングルに、驚くほど近かった。


「けっこう本格的に撮ってるんだね……悪くない」

「……ありがとうございます」


 まだ荒削りだが、雰囲気をきちんと切り取っている写真だった。きっと彼女は目がいいのだろう。間違いなくカメラマンに必要な、物体が持つ色気を見出す目を持っているタイプだ。


「コンテストは狙って取れるものではないので、そんなに気負わなくてもいいですよ」

「そうなんですか」


「結局は何に感動して、シャッターを切ったのか、どうしてその瞬間を捉えたいと思ったのか。それがきちんと伝わる写真を撮れたら、それでいいと思います」


 彼女は真剣な表情で、ぼくをまっすぐ、じっと見ている。


 あの日にぼくが汚すまでは、先生もこんな風に、ぼくを見ていてくれていた。それを壊したのはぼくだ。


「心が揺さぶられた瞬間にシャッターを押すと、奇跡のような写真が撮れることがあります。それは誰かが教えられるものではありません。自分が何に感動するのか、何が好きなのか。それに向き合うことのほうが大事かもしれませんね」


 ぼくは知った風な言葉を吐き、偽りで塗り固めた笑顔を返す。


 写真を愛していた先生に、教わった大切な言葉を、こんな形で誰かに託すことになるとは、あの時は思いもしていなかった。


「でも君なら大丈夫です。無意識のうちに、それができているようですから。カメラマンに向いてますよ」

「だと……いいんですけど」


 彼女はファイルをめくって、ある写真を抜き出した。


「あとこれ、母が撮ったものなんですけど。好きな写真なので、お手本代わりに、いつも持ち歩いてるんです」


 彼女がそう説明した写真を見た瞬間、ぼくの心臓が、過去から伸びてきた手に、ぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。


 廃墟の女王と謳われる、摩耶観光ホテルのサンルームの写真だった。


 神戸市の摩耶山中腹にある美しい建物だ。今ではもう調査や見学ツアーなどの正式な名目がないと、一般人の内部への進入は禁止されている。


 だが、当時はまだぼくたちのような、廃墟マニアがこっそり探索することも可能だった。アクセスも悪かったこともあって、見た目の美しさのみならず、苦労した後に秘境で見つける宝石のような、レア度の高さも人気の廃墟だった。一番良い時期だったのかもしれない。


 光が差し込んで、幻想的な雰囲気の写真に仕上がっている。割れた窓ガラスの外の緑、床に置かれた赤いスーツケース、天使の羽が描かれた青い傘。相反する色のコントラストが特徴的だった。


 間違いない。これは先生の写真だ。

 どうして、こんなところに。


 まさかな。そう思いながら、写真から目を挙げ、彼女を見た。


「そう言えば、まだ君の名前を聞いてなかったですね」

廃道はいどうアリスです」


 赤いチェック柄のマフラーを外した彼女の顔は、ぼくの愛した先生にそっくりだった。どうやら未来先生と、幼馴染の廃道という男との間にできた子供が、この娘だったようだ。


 本当に、神様は意地悪だ。

 これを運命と言わないのなら、この世に運命なんて存在しない。


「廃道さんは……マヤカン、好きなの?」

「はい、とっても。いつか行ってみたいなと思ってます」


 アリスと名乗った小柄な少女は、目を輝かせて、何度も頷いた。


「ぼくもこの場所が、一番好きなんだ」


 だからぼくは過ちを犯した。一番好きなあの場所で。一番大好きなものを、壊してしまった。


 アリスは机上のファイルを見てから、ぼくの目をちらっと見て、目を伏せた。何か言いにくそうにしている。


「なんですか」

「もしかして、先生って廃墟写真のブログとか……やってますか」


 ブログは匿名でやっていたが、ぼくにつながるような名前やプロフィールは、どこにも書いていなかったはずだ。


「どうして……そう思うんですか」

「母の写真と、なんか雰囲気が似てる写真を、たまたまネットで見つけたので。だからこれを見て驚きました」


 ぼくの渡したファイルをめくったアリスは、摩耶観光ホテルのサンルームの写真を見せてきた。


 月夜の光に照らされた廃墟、割れた窓ガラスの外の緑、赤いスーツケース、天使の羽が描かれた青い傘。撮影された角度は違うが、明らかにあの日、同じ場所で撮影した写真だった。


「どうやったら、こんなに素敵な写真が撮れるんだろうって、ずっと不思議で仕方がなくて。母に聞いても、自分で考えなさいって言うだけだし。でも同じような写真が撮れる先生なら、何かわかるかもしれないって思って」


 アリスは、母のお古だという一眼レフを、ぎゅっと抱きしめた。


「先生教えて下さい。私にもいつか、こんな写真が撮れるようになれますか」


 廃墟に降り注ぐ、月明かりのまっすぐな光の柱のように、アリスの尊敬の眼差しは、ぼくには眩しすぎた。


 そんな澄んだ瞳で、ぼくを見ないでくれ。目を通して、心臓が焼かれてしまいそうだった。


「ぼくには……わかりません。未来のことなんて、誰にも」


 そう答えるのが精一杯だった。


「そう……ですよね」


 彼女は少し困ったような顔をしている。


「先生、この写真、分けてもらえませんか。お手本にしたいので」


 アリスはぼくの写真ファイルを指差した。


「……いいですよ。好きなのをどうぞ。なんなら、ファイルごと全部持っていけばいい」

「ありがとうございます。じゃあ全部で」


 アリスがファイルをカバンに押し込もうとした。だがファイルが思ったより大きくて、うまくカバンに入らないようだ。


 小さなリスが、無理やり頬袋に餌を放り込むみたいに、必死な様子が少し滑稽で、つい噴き出してしまった。しっかりしてそうなのに、ちょっとばかし天然なところも、先生に似ているかもしれない。


 無意識のうちに、目の前にいるアリスに、かつての先生を重ねていた。あの日、ろくでもないことをしでかした、ゆがんだ思いが、まだくすぶり続けていることを、自覚してしまった。


 これはよくないことだ。頭ではわかっている。

 だがなんでも理屈で制御できるぐらいなら、人間は後悔なんてしない。




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