廃墟で殺されるのにうってつけの日3(廃道善人)
ビクビクしながら開けたのに、中身は空っぽだった。
赤茶けた植物の枯れた花びらのようなものが、スーツケースの底に少しへばりついているぐらいだ。花が咲いている時期にでも、使ったのだろうか。とにかく死体も財宝も、入ってないようで一安心だ。
ホッとしている僕を見て、先輩は心底楽しそうに笑っている。
「だから言っただろ。大したものは入ってないって……今はね」
今はねって、どういう意味だ。
昔は何か入っていたとでも言うのだろうか。それとも、これから何かを入れるということか。どうせ僕をビビらせるために、ハッタリで言っただけかもしれない。
なのに、その赤い色は、あまりにも象徴的すぎた。ふいに事件関連の資料で見た映像が、頭に浮かぶ。
赤いスーツケースを使った事件があったはずだ。ほかにも連想させるのは、飛び散った血。やけに嫌なことを思い出しそうだったから、発想を切り替える。
そうだ、食べ物とかどうだろう。肉、トマト、ほら、美味しそうだ。大丈夫、気のせいだ。悪いことは起こらない。自分で自分を納得させて、とめどなく頭で再生される映像を、なんとかシャットダウンしようと努めた。
「ではビビリ王の君に、楽しい問題でも出してやろう」
「ビビリ王は余計です」
確かにビビりましたけども。楽しい問題なんて、どうせろくでもない問題にちがいない。
先輩は本に目を落とし、あるページを見ながら言う。
自分だけカンニングとか。ずるいぞ、そんなの。
「さて問題だ。巨大な金網の上で、生きたまま焼かれて死んだ男の名前は?」
「知りませんよ、そんなの」
よりによって、焼かれて死んだ男の名前かよ。
全然楽しくないじゃないか。せっかく二人きりになったというのに、とてもじゃないが、僕たちの関係は、ロマンスな方向には行きそうもない。
「でもなんか、屋根裏部屋にあった、古いレコードを思い出しました。昔のヒット曲にありましたよね。『たい焼きくん』のお気持ち表明みたいな歌でしたっけ。毎日焼かれちゃうやつ」
「毎日焼かれて嫌になったのは、金網ではなく鉄板だ。それに残念ながら人間の話だよ」
「人間を生きたまま焼くって……最低ですね、それ」
「たい焼きだったらいいのか」
「はい?」
「魚はどうなんだ」
やばい。これは答えれば答えるほど、問題がエンドレスに提示され、迷宮入りするやつだ。
「いや、それを言い出したら。人間が生きるためには、食料が必要ですし、仕方がないというか。誰にだって、犠牲というのは必要なのでは」
「最低なのは……君のほうだな」
「先輩にだけは、言われたくないです」
自分のことを棚に上げて、よくそんなことが言えたものだな。きっと先輩は、二十階建てビルぐらいの棚を、瞬時に作れる能力者なのかもしれない。
「ならば、犠牲になっても、仕方がないという理由があれば、君は相手を殺せるのか」
「いやいやいや、別にそういう物騒な意味ではなく。例えばですね、生存戦略とか、正当防衛とか、いろいろ、あるじゃないですか。仕方がない理由というものが」
「ならば問題だ。犠牲を払っても、仕方がないという線引きは、どこなんだ」
「線引き、ですか」
「相手がたい焼きのように、生物でなければいいのか。それとも、喋らない魚ならいいのか。鳴き声を出す鳥はどうだ。豚や牛はどうなんだ」
また面倒な話になってきた。
「焼き殺すことが残酷だというのなら、斧で首を切り落とすだけならいいのか。ボウガンで心臓を貫くのは、突き落とすのは、土に埋めるのは。殺し方はどれなら許されるんだ。君にとっての、ボーダーラインはどこにある」
やはり今回の問題も、こちらには覗き込むつもりがないのに、いつの間にか蹴り飛ばされていて、永遠に深淵から戻ってこられなくなるタイプのようだ。
始まってしまったものは、しょうがない。僕はただ、巻き込まれたら最後、なすすべもなく転がされる羽目になるだけだ。
「ボーダーラインと言われましても。時と場合によるとしか」
「君の先ほどの言い分によれば、自分が生きるためという理由さえあれば、誰かを殺しても構わないと言っていることになるが」
明らかな誘導尋問だ。けれど、そう思われてもしょうがないことを、僕が実際に発言したのは事実だ。いつだって、まんまと罠に嵌められている。気がついたときには、もう遅い。
「まるで僕が、簡単に人殺しができる人間である、みたいな言い方はやめてください」
「違うのか」
「僕は……人を殺したりしませんよ」
先輩は書物から目をあげると、僕のことをじっと見た。
「何があっても?」
「本当に、何があってもです」
携帯用ラジオについた小さなライトが、先輩の瞳に反射している。暗闇の中で、やけに光って見えた。まるで僕を食い殺そうとしている、獣か何かのように。
「死ぬほど大切に思っている人を、目の前で奪われそうになっても?」
「僕は、人殺しはしません」
先輩はムッとした表情を見せた。
「君は、最低だな」
「なんでですか。人殺しをするほうが、最低でしょうが」
すぐに、しまったと思ったが、もう遅かった。これは特定の人を切りつけるタイプの発言だ。言葉はナイフを振り下ろすよりも早く、相手の懐を切りさいてしまう。
「……すみません」
先輩は視線を遠くに飛ばす。時々先輩は、こんな虚ろな瞳を見せる。行方不明になったままの、本当の父親のことを思い出しているのだろうか。
「君の答えにはがっかりした。実に残念だよ。大切な人を、見殺しにする人間のほうが、よっぽど最低だと思うけどね」
いくらがっかりされても、無理なものは無理だ。
誰かのために、人殺しをするなんて。とてもじゃないが、僕にはそんな芸当はできそうにない。僕はただの臆病者だ。そんな状況になったら、逃げ出してしまうかもしれない。
「やはり君は、呆れるほどに無自覚で、こちら側の人間じゃないんだな。クリーンすぎてつまらない」
先輩は、『こちら側』という言葉をよく口にする。
加害者側という意味で使っているらしい。そんなに先輩は、僕を陥れて汚したいのだろうか。
もしかしたら、僕を人殺しにしたいのかもしれない。
まるで、先輩の本当の父親だという神咲直夜が行方不明になってから、連続殺人犯として祭り上げられたように。