【光の降る廃墟13(廃道アリス)】
屋上につながる階段の途中に、父が倒れていた。足を滑らせて落ちたのか、故意に落とされたのか。
「お父……さん」
声をかけても反応がない。だが息はしている。気を失っているだけだろうか。
嫌だ。どうしてこんな。なんでこんなことに。
もしかしたら、父を突き飛ばしたのは、先生なのだろうか。後ろ髪を引かれながらも、私は階段を上がった。
屋上に立っていた先生は、振り返って、私の姿を見つけると、うっすらと笑った。先生の足元には、赤いスーツケースと一眼レフカメラがあった。母のお古と同じ型のカメラだ。
「一足遅かったですね」
「先生がやったんですか……お父さんを、あんな」
「しょうがないじゃないですか。ぼくと未来さんの心中を、邪魔しようとするから」
「お母さんと心中?」
「君のお父さんが、ものすごい形相でやってきたから、未来さんが怯えて、一人で先に飛び降りちゃったんですよ」
先生は地面があるほうを、ちらりと見下ろした。
「朝日が昇ったら、花びらに埋もれる彼女を抱きしめながら、一緒に飛び降りるつもりだったのに。台無しです」
赤いスーツケースの中には、空色の花びらがたくさん残っていた。ブルースターだろうか。私も母も好きな花だった。ケースから溢れて散らばった花びらは、雨で濡れている。
私は恐る恐る、ゆっくりと屋上の隅から覗き込むが、地面のあたりは暗くてよく見えない。ペンライトで照らすと、女性が倒れているのが見えた。ピクリとも動かない。
「どうして、心中なんて……あんなに綺麗な写真を撮る人が、何でこんな」
少しずつ夜が、明け始めていた。
「きっと写真家には、自分殺しの素質があるのかもしれませんね。戦場で『ハゲワシと少女』という有名な写真を撮った写真家も、ピュリツァー賞を受賞して、三ヶ月後に自殺したみたいですし」
雨が止み、雲の切れ間から、朝日が顔を出した。
「人や物に執着して、それを捉えたいと思う。自分のものにしたいと思う。とても傲慢な考えを、潜在的に持っていますから」
グラデーションの美しい空を、先生はじっと見つめている。
「その気持ちが、未来さんを壊してしまった。写真だけでは、我慢できなくなって、思わず手を出してしまったんです。手に入らないとわかっていたのに」
先生が振り返って、私の目を見た。
「朝永くんがいなければ、君のことも同じように、壊していたかもしれません」
私はそれでもいいと思っていた。なのに。
「将太を殺そうとしたのは、どうして」
「ぼくたちの旅立ちに、水を差したからですかね。まぁ端的に言うと、ムカついたからです」
「それだけで……?」
「だから言ったでしょう。ぼくは聖人なんかじゃないって。いいかげん、ぼくのことを嫌いになってくれましたか」
「先生のことなんか……大嫌いです」
言葉とは裏腹に、私は首を横に振っていた。なのに、先生は満足げに微笑んでいた。
「よかった。それでいいんだ。今度こそ本当に、さよならです」
歩き出した先生に、無意識のうちに、背後から抱きついていた。
「先生なんか大嫌いです。だから……死なないでください」
目の前にある、先生の背中が、小さく揺れる。あまりにバカなことを言う私を、笑っているのだろうか。
「君の言葉は、矛盾に満ちていますね。でも、とても優しい嘘だ」
先生は私の腕を掴んだ。
「あの日、君に触れるべきじゃなかったのに。でも少し想像してしまったんだ。もし君を汚して、万が一、ぼくの子供ができた時。それが誰の子であるかを聞いたあの父親が、どんな顔をするだろうかって。その瞬間が訪れることを、心の底では願ってしまったのかもしれない」
先生がそんなことを考えていたなんて。
「もちろん、幼馴染の誰かさんの邪魔が入って、目的は達成することはできなかったけれど。少なくとも、もしかしたら手を出されたかもしれないという、疑心暗鬼の感情を、彼らに与えることはできたでしょうね」
舞い上がっていたのは、私だけだったみたいだ。
「でも、事実なんて、どうでもいいんですよ。もしかしたら、そうかもしれない。そう思ったら最後、人というのは、相手を信じられなくなる。例え、愛していようとも。むしろ相手を愛していればいるほど、その言葉は信じられなくなる」
バカみたい。本当にバカみたいだ。
「やがてその怒りの矛先は、相手に向かうんです。自分が悪いんじゃない。相手が悪いからだと、自分が正しいと思い込むために、相手を追い込んでしまう。未来さんの心を、何度も殺してきた、どこかの誰かさんみたいにね」
先生はちらりと、階段のほうを見た。
「おかげで、ずっと未来さんは苦しんでいた。あの男のせいで。きっと君も、その被害者の一人なんでしょう」
私が被害者?
先生は何の話をしているのだろう。
まるでキスしてしまいそうなほど、顔を近づけて、私の目をじっと見つめてくる。あの日みたいに。
「そんなに、ぼくを絶望から救いたいのなら、君が未来さんの代わりに、ぼくと心中しますか」
私は反射的に、身を引こうとした。
だが、先生に掴まれて動けない。
「なんで嫌がるんですか。ぼくのこと、好きなんでしょう?」
「お願い……もうやめて」
必死に先生に問いかけるが、私の声がまるで聞こえてないみたいだった。
「きっとここで、ぼくたちが死ねば、君のお父さんの記憶の中に、未来永劫消えることのない深い傷として残るはずです」
先生が笑っている。いやらしく。狡猾に。
「ぼくたちのことを一生後悔しながら、彼が生きて行くと思ったら、それはそれで楽しそうだ。どうせ彼女を手に入れることは、もうできない。ならそっちのほうが、むしろ素敵かもしれないね」
とっておきのおもちゃを見つけた子供みたいに、先生は、はしゃいでいるように見えた。
「先生、やめて。きっとお母さんのお腹には……いたんです、子供が」
「子供?」
「先生は、お母さんだけじゃない。その子供の命も奪ってしまったかもしれない。だからもう、これ以上、こんなことは、お願いだからやめてください」