廃墟で殺されるのにうってつけの日11(廃道善人)
ふと中庭から見える、納屋のような建物の前に、斧とボウガンが立てかけてあった。
僕が地下室に入る前には見当たらなかったから、きっとガラクタに目のない、二年の古家さんあたりが、見つけてきたのかもしれない。まさかあんな物騒なものを、部室に持ち帰るつもりじゃないだろうな。
「あんなものがあるなんて、やっぱり、こんな山奥だと、昔は狩りとかしてたんですかね」
「目ざといな。君はビビリでバカのおかげで、命拾いをするタイプかもな」
「命拾い? 何の話ですか」
ビビリだのバカだの。口を開けば、僕をディスるのはやめていただきたい。
「昔なら、君みたいな臆病者は、狩場では足手まといだ。現代社会なら、命の選択をせまられるようなことも、ほとんどない。君は今の時代に生まれたことを、感謝すべきかもしれないな」
確かに、野生動物を殺して、自分でさばいて食べるなんて。そんな時代に生きていたら、僕みたいなビビリは、とてもじゃないけど、生きていけなかったかもしれない。
昔の山奥でなら当たり前の行為も、現代のビルが乱立するような街中で、業者でもない一般人が、突然、斧やボウガンで動物を仕留めたりしたら、ただの猟奇的な頭のおかしな人だと思われるに違いない。
けれど逆に、動物を殺さないと生きていけない時代に、僕みたいに「殺せません」なんて言っていたら、逆に頭がおかしいと思われて、餓死する運命になっていただろう。
人の倫理観なんて、時代や場所によって、いくらでも変化する。戦争で成果を上げた英雄が、戦いが終わった途端に、凶悪な殺戮犯として裁かれることがあるように。
僕みたいな人間は、今の時代に生まれてきて、本当によかったなと思う。
「でも残念だよ。せっかく君と、骨になるまでの気分を、もう少し味わえると思っていたのに」
「勘弁してください。僕はまだ死にたくありません」
何度も首を横に振ると、先輩はにっこりと笑う。
「冗談に決まってるだろ。心配するな。もし君を殺すことになったとしても、ここよりもっと、とっておきの場所がある」
相変わらず眩しい笑顔で、恐ろしいことを言う。
「殺すって、またそんな物騒な単語を。冗談で話すような言葉じゃないですよ」
まったくもって、先輩は頭がおかしい。
さすが犯罪者と噂される神咲直夜の、血を引いているということだろうか。もちろんいくら親子でも、同じ人間ではない。思考も行動も別物のはず。
なのに、なぜだか犯罪者というカテゴリーになると、つい同一視してしまう。悪い癖だとは思うが、生存本能を刺激する事案なのだろう。
なるべく危険なものから遠ざかるために、人間が獲得してきた、思考の癖のようなものなのかもしれない。
「その廃墟は、今はもう内部へは、通常は立ち入り禁止なんだがね、とても良い所なんだ。いつか君も連れて行ってあげるよ」
危険だとわかっているのに。
その笑顔に魅了されずにはいられない。
先輩の言うように、僕はバカなのだろう。
先輩だって、僕をからかうことを、楽しんでいる節がある。
僕がこの廃墟研究部に入部してからずっとだ。
「きっと君も気に入るはずだ。なんてったって、君の母親や姉も大好きだった場所だからね」
「二人が大好きだった場所……ですか?」
「写真が残っていたはずだ。君も知っている、とても有名なところだよ」
先輩はもったいぶって、教えるつもりはないようだ。
屋根裏部屋で見つけた、古い一眼レフカメラに残されていた、ある廃墟写真を見せた時に、先輩が目の色を変えたのを思い出す。
ニヤリと笑う先輩は、やけに猟奇的で美しかった。
やっぱり先輩は何か、母や姉の死の真相を、本当に知っているのだろうか。
入部をしたら教えてくれるという約束だった。けれど、なんだかんだとはぐらかされて、未だに答えを教えてくれていない。先輩が学校を去る日まで、お預け状態だ。
だが、知ってしまったら、すべてが終わりになりそうな気がしていた。それだけ僕たちが危うい関係だということは、僕だって気がついている。
普通に考えたら、こんなに学校で一、二を争うぐらいに綺麗な先輩が、平凡を絵に描いたような僕を、いきなり入学式の日に、部活へと勧誘しにくるなんてことは、ありえないのだから。
ただの仕組まれた悲劇なのか。
それともお互いが真実を求めようとしたがための、愚かな喜劇なのか。
僕の父が繰り返し口にした、『早死にしたくなかったら、頭のおかしな人間には、絶対に近づくな』という言葉が、何度も頭の中で繰り返される。わかっているのに、先輩から目を離すことができない。
あれだけひどい扱いを受けたあとに、こんな美しい笑顔を見せられて、『とっておきの廃墟に連れて行ってあげる』なんて言われたら、魅了されるなというほうが、無理な話である。きっと先輩だけじゃなく、僕も頭がおかしいのだろう。
やはり閉鎖空間で、非日常的な体験を共有するのは危険だ。
きっとこれは、部活という場所で発生する、ストックホルム症候群のようなものにちがいない。
ずっとひどいことをされているのに、被害者が生存戦略として、相手に好意を抱いてしまうような、通常ではありえない状況に、僕は陥っているのかもしれない。
先輩はとても危険な人間だ。頭ではわかっているはずなのに。僕は本当に学習しない男だと思う。本能には抗えない。怪しければ怪しいほど、魅了されてしまう。
だが誰だって、そういうことってあるだろう。わかっているのに、やめられないことなんて。
酒だってタバコだって、禁止されればされるほど、人間はみんな魅了されて、虜になってるじゃないか。
愚かなロジックを生まれながらに埋め込まれた、バグだらけの生物。それが人間じゃないのか。
僕はこの部活をやめられない。頭のおかしな先輩から逃れることができない。父の教えを守ることができていない。
それが真実であり、人間が愚かでバカであるということを証明している。
もし僕が、あの入学式の日に、戻ることができたとしても、きっとまた、先輩に誘われて、廃墟研究部に入部してしまうのだろう。半年前の僕は、あまりにも無知で愚かだった。だからこそ、この悲劇は始まったのだ。
今はまだ、冗談ですんでいるかもしれない。だが、いつの日か、先輩の狂気が、冗談ですまなくなったとしたら。
いずれ僕は本当に、先輩に殺されるのだろうか。
頭のおかしい人間に、廃墟で殺されたかもしれない、僕の母と姉のように。
ふいに、めまいがした。丸一日寝ていなかったのだ。先輩と違って、仮眠すら取れていない。
「すみません、ちょっと仮眠を取ってきます」
先輩たちに断ってから、廃墟の近くに設置したテントに戻ると、寝袋の中に潜り込む。
目を閉じた瞬間、身体中が生ぬるい泥に包まれているような感覚に襲われる。もうすぐ落ちるな。そう思った時には、気絶するように眠りに落ちていた。
嫌な夢を見ていた。
あのまま僕が我慢しきれずに漏らした瞬間が、あまりにも生々しく再現されて、慌てて飛び起きた。
ズボンとパンツを確認するが、大丈夫だった。さすがにこの年になって、寝ションベンをするなんてことは、あってはならない。しかもこんな山奥での合宿中にだなんて。ただの夢で良かったと、胸をなでおろす。
だが、夢にまで見るなんて、最悪だ。どうせ見るのなら、先輩とあんなことや、こんなことをするような、そっち方面のやつでも見ればいいのに。
どうやら僕は、夢の中ですら、甲斐性なしということみたいだ。
僕が先輩に手を出せなかったのは、言い訳じみて聞こえるかもしれないが、きっと、ただ見ているだけで、それでも十分だったのかもしれない。
美人は三日で飽きるなんていうが、先輩の全てを見透かしているような大きな瞳も、酷いことを言うためによく動く唇も、いくら見ていても僕は飽きなかった。
書庫で見た先輩の寝顔も、やはり美しかった。黙っていれば、本当に天使みたいな顔をしているのに、どうして中身はあんな悪魔みたいなんだと、頭の中で果てしなくツッコミ倒していた。
けれど、それが先輩なのだ。
美しくて頭のおかしな女。そんな先輩が、僕はとても好きだった。
しかも相手は、自分の母と姉を死に追いやったかもしれない、因縁の男の隠し子というのだから、意識するなというほうが無理である。
僕の中で、代わりの効かない、特別な人になってしまった。
でもきっと、この恋が成就することはないだろう。そんな予感しかしない。