廃墟で殺されるのにうってつけの日10(廃道善人)
「もしかして、このまま本当に、出られないんですかね」
「かもしれないな。まぁその時は、その時だ」
どうしてこの人は、こんなに落ち着いていられるのだろう。肝が座っているにもほどがあるのではなかろうか。
僕が尿意から、少しでも気を紛らわそうと、部屋の中をうろうろとしていたら、先輩が部屋の隅にあるゴミ箱を差し出した。
「そんなに我慢できないなら、この中にすればいい」
「え、いや、それはちょっと」
まさか先輩の目の前で、ここでしろというのか。
「ほら、遠慮せず」
先輩は僕に向かって、ゴミ箱をぐいぐい押し付けてくる。
やめてください。刺激されたら余計に。もうダメだ。そう思った時だった。
重たい扉が開く音とともに、新鮮な空気が、光と一緒になだれ込んできた。
「何してるんですか、こんなところで」
扉を開けたのは、二年の図師くんだった。見取り図を作るために、あちこちを探索していたのだろうか。首には、いろんな種類のメジャーがぶら下がっている。
僕はこの奇跡の再会を喜ぶ暇もなく、階段を駆け上がり、一目散に外に飛び出した。
危なかった。あと数秒でも遅れていたら、やばかった。
なんとか最大の危機を、回避することに成功したようだ。もし二年の図師くんが、扉を開けてくれなかったら、今頃、先輩の前で出す羽目になっていたのかと思うとゾッとする。
図師くんに向かって、深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました。ずっと閉じ込められてて、死ぬかと思いました」
「閉じ込められて?」
「どうやっても、取っ手がないので開けられなくて」
図師くんは不思議そうな顔をしている。
「知らなかったのか。あの秘密箱の開け方、ちゃんと旅のしおりの巻末に書いてあったのに」
「旅のしおりに?」
図師くんがしおりをめくって見せてくれた。QRコードが載っている。
「手順を実践した動画ファイルは、ここに来る前に、みんなでダウンロードして確認してたから、部長が知らないはずはないと思うけど」
「え?」
「そういえば、車の中で寝てたね、お前」
どうりで先輩はあんなに余裕だったのか。
答えを知っていたから、いつでも出られるとわかっていたのだろう。
確かに、開け方は覚えていないとは言っていたが、知らないとは言わなかった。覚える必要なんてない。先輩のスマートフォンには、動画の答えが眠っていたのだから。
つまり、まんまと騙されたということだ。なんだよ。僕だけがずっと、死にそうな気持ちになっていたなんて。バカにしやがって。
もちろん、大事なことを聞き漏らした僕も悪いのだけれど。
「だから言っただろ、君はあまりにも無知で愚かだ」
「いや、寝てたんだから、しょうがないじゃないですか」
「思慮が足りないと言っているんだよ。QRコードは出発した時点で、旅のしおりに提示されていた。君の確認不足なのは否めない」
「それはそうですけど……」
「たとえ知識がなくとも、少し考えればわかるはずだ。私のような優秀な人間が、自ら閉じ込められるような、愚かなことをするわけがないだろう。本当に、君はバカだな」
何回も繰り返しバカ、バカ言いやがって。くっそー。
しかも自分で優秀とか言っちゃうあたりが、さらにムカつく。確かに特待生として授業料を免除されるレベルに、僕よりよっぽど成績いいのは知っていますけども。
言い返せないのが悔しい。前もって確認しなかった僕の負けだ。
「昔、この屋敷に住んでいた推理小説家が、そういうイタズラが好きだったみたいだな。執筆に苦しんでいる時に、呑気に旅行気分で原稿を取りに来た新人編集者を、わざと閉じ込めて、右往左往するのを楽しんでいたらしい。外からは簡単に開くから、実質やりたい放題ってやつだ」
どうやら悪趣味な人間は、先輩のほかにもいたようだ。
完全にしてやられた僕を見て、先輩は満足げに笑っている。
「貴重な体験ができたことを、私に感謝したまえよ」
「は?」
「生きていて良かったって、実感できただろ。合宿のレポートに書くことが、一つできたじゃないか」
先輩はこういう女だ。僕に迷惑をかけたなんて、一ミリも思っていない。
まったくもって悪趣味だ。
先輩は、すっかりぬるくなったミネラルウォーターを、投げてきた。丸一日閉じ込められているうちに、クーラーボックスの氷は、すべて溶けてしまったようだ。
山を登る前に、先輩が「どうしても冷たくないと嫌だ」と言ったから、重たいのを我慢して、僕が運ぶ羽目になったというのに。とんだ無駄骨だ。
だが、一日ぶりに摂取した水は、今まで飲んだ、どんな水より美味しかった。
「あんまり急に飲むと、死ぬぞ。一緒に栄養も補給しろ。ほら、あーんしろ」
先輩は小さく笑いながら、自分が食べていた携帯食の固形スティックを、半分ちぎって僕に差し出した。
まるで犬に餌付けをするみたいに、ナチュラルな仕草にめまいがしそうだった。
僕は犬じゃない。ちゃんとした人間の男ですよ。
そう言いたい気持ちをぐっとこらえて、先輩の差し出す固形スティックを口に含む。久しぶりの食料が舌の上に転がった瞬間、あまりにも美味すぎて、うっかり泣いてしまいそうだった。
きっと世界で一番の美食家は、今にも餓死しそうな人にちがいない。だからと言って、毎回こんなドッキリ体験を、繰り返すバカはいない。
あまりに特殊な状況に慣れすぎると、いずれその感動と恐怖にも慣れて、何も感じなくなってしまうからだ。
この世に永遠なんてものはないように、楽しいことや嬉しいことほど、人間はすぐに鈍感になる。残念ながら、そういう風になっている。
この世界を作った神様は、きっと先輩に負けないぐらいに、結構な意地悪だと思う。
僕が飲みさしだったミネラルウォーターを、先輩が横取りした。そのまま残りを一気に飲み干した。
これってもしかして、間接キスってやつじゃないですか。なんてドキドキしているのは僕だけのようだ。
悲しいかな、やっぱり僕のことなんか、異姓として意識してもいないのだろう。
「さて問題だ。この屋敷に、かつて住んでいたのは誰だ」
「それなら、さっき聞きましたよ。推理小説家でしょ。いたずら好きの」
「名前のことだ」
「そんなことまで、僕が知ってるわけないでしょ」
「本当に君は無知だな」
理不尽だ。ミステリーツアーと称して、どこに連れて行かれるかさえも、秘密だったのに。
「この屋敷を所持していたのは、君の祖父だよ」
「え?」
「廃道正だ。ペンネームは別にあるようだが。まさか、祖父が、推理小説家をしていたのを、知らなかったのか」
聞いたこともない。うちの家系にそんな人がいたなんて。
しかも、あんな頭のおかしな、いたずらのために悪趣味な地下室の仕掛けを作ったのが、自分の祖父だというのだから、別の意味でも頭が痛い。
「ちなみに、あの書庫で、推理小説家の死体が発見されたそうだ」
「し、死体?」
「認知症になって、みんなを閉じ込めるはずの悪ふざけの仕掛けが、当の本人が答えを忘れて、解けなくなったらしい。そのままずっと外に出られず、餓死しているところを発見されたようだよ」
「ちょっと待ってください。それをわかっていて、あそこに僕を連れて行ったんですか」
「冗談だよ」
先輩はニヤリと笑う。
「そんな事件があったら、ニュースになっているだろう……普通はね。まぁ本家は、当時は資産家だったらしいから、事件自体を握りつぶしたという可能性もあるが」
なんだか含みのある言い方をする。結局、先輩の言うことは、どこまで本当かどうかよくわからない。真面目に聞いたら、こっちがバカを見る羽目になる。