廃墟で殺されるのにうってつけの日7(廃道善人)
ことあるごとに顔が近いのは、やめてほしい。
もしかして、僕は試されているのだろうか。それとも、真意を探られているのか。
「それはただ……入りたかったからです。母と姉の母校なんです、この学校は」
「奇遇だな。同じく、父の母校だよ」
「父親なのに母校って、なんか変な言い回しですよね」
「子供が生まれてくるのは母体だからだろう。父親から生まれる技術ができれば、いずれ父校という言い方もされるようになるかもしれないが。で、本当にそれだけか?」
先輩はさらに顔を近づけてくる。近い。近すぎる。
「実は……母や姉が残した廃墟の写真を見て、廃墟に一目惚れをしたんです」
「さらに奇遇だな。私もきっかけは、父の写真を見たからだよ」
身近な人間の影響で、廃墟に魅入られたのは、僕だけじゃないことが、少しだけ嬉しかった。だが、それと同時に、少し複雑な気持ちだった。
いわゆる、理解されたいくせに、理解されると困る症候群とでもいうのだろうか。お気に入りの服を着て出かけたら、電車で隣に座った人が、同じ服を着ていた時のような。同志を見つけて嬉しいはずなのに、悲しくなるアレだ。
実に面倒くさいと自分でも思う。
「そんなに素晴らしい写真なら、ぜひ見せてくれないか」
僕はスマートフォンを取り出して、一番好きな廃墟写真を、先輩に見せた。古い一眼レフカメラに残されていた写真を、スマートフォンのカメラ越しで撮影した画像だ。
じっと画面を覗き込んでいた先輩の、瞳孔が開くのがわかった。世界で一番美味しいものを食べた時みたいな、うっとりとした表情で、まるで感動のあまり、今すぐにでも泣いてしまいそうな、そんな瞳をしていた。
もしかしたら、僕が初めてこの写真を見た時も、こんな顔をしていたのかもしれない。
「なるほど。そういうことか。すべて理解したよ。このデータ、私にもくれないか」
「いいですよ」
「アドレスを入れるから、少し貸してくれ」
先輩は画面を操作して、データを転送しているようだ。やけに時間がかかっている。
そんなにデータ量は多くなかったはずだが、先輩のスマートフォンが通信制限でもかかっているのだろうか。やっと転送が完了すると、スマートフォンを返してきた。
先輩は自分のスマートフォンを確認しながら言う。
「時々あるんだよ。こういう奇跡の一枚が。実に素晴らしい」
その瞳は、大事なおもちゃをもらった子供みたいに、キラキラと輝いているように見えた。
「一瞬を切り取っただけの写真なのに、なぜか時と空間を超えて、別の誰かの心に刺さるようなものが出来上がってしまう。見たことも行ったこともない場所なのに、一瞬でそこにいるような不思議な錯覚にとらわれてしまう、圧倒的な実在感を持った写真というのが」
興奮気味に先輩は、写真を崇めるように、スマートフォンを高く掲げた。
「写真は場所と時間を閉じ込める魔法のようなものだ。その中でも、特殊な能力を持っている人がいるんじゃないかと感じる時がある。魔法使いのような人がね。同じものを撮影しているのに、決定的に何かが違うんだ」
きっと先輩も、これまで何度か見たことがあるのだろう。僕が心を奪われたのと同じように、素晴らしい廃墟の写真を。
「わかります。僕もその魔法を手に入れたかった。だから、母や姉がいたこの部に入れば、いつか僕も、こんなに素晴らしい写真を撮れるかもしれない、そう思ったんです」
先輩はちらりと僕を見て、不敵に笑う。
「君は、どんな写真を撮っているんだ。見せてくれ」
僕はスマートフォンに転送してある写真を、いくつか先輩に見せた。
先輩は困ったような顔をしている。
わかっていた。あんなにすごい廃墟写真を見せた後に、僕が撮った写真が、いかに残念なのかぐらい、自分でも嫌というほどわかっていた。他人の目が、これほどまでに雄弁なのかと、僕はその残酷さを思い知った。
「才能というのはギフトだ。いくら努力しても、到達できない領域というのは必ずある」
先輩が言葉を選んでいるのがわかった。遠回しに、才能がないと言われているようにしか聞こえない。
「でも……挑戦してみないと、本当に向いているかどうかすら、わからないと思います」
「そうだな。ならばやってみればいい。ちなみに、私は、こういうのを撮っている」
棚から取り出したファイルを開く。今では入ることが禁止されている、有名な廃墟の写真も混じっていた。
一目見ただけで、格が違うのがわかった。僕が一目惚れした写真と、雰囲気が似ている。寂しくて、悲しいのに、やけに美しい。そんな廃墟の写真が、ずらりと並んでいた。
「ものになるかどうかは、君次第だ。ただし、君の心を奪ったものと『同じもの』ではダメだ。『超える』作品を目指すべきだ」
「……はい。頑張ります」
圧倒的な差を見せつけられた後の、口から出た『頑張る』という言葉の虚しさが、胸の奥の方にある、大事なものを握りつぶしそうになるのを、必死に耐えていた。
続いていると思っていた道が、突然途絶えて、巨大な崖が、目の前に広がっていたら。始まる前から終わっている場合は、どうやって前に進めばいいのだろう。
僕には翼はないのに。先輩にはその翼があるのだ。きっと。
「どうかしたか」
「いえ、なんでもないです」
先輩は口元に一本、人差し指を立てた。
「では善人、入部記念に一つ、いいことを教えてやろう」
さっそく下の名前を呼び捨てとは。
自分のことは、絶対に名前で呼ぶなと注文をつけておいて、勝手にもほどがあるんじゃなかろうか。
だいたい、女子に下の名前で呼ばれたなんて、初めてかもしれない。なんでこんなに、心臓がドキドキしているのか。落ち着け、僕の心臓っ。
「君も知りたかったんだろう。君の母親と、姉の死の真相を」
先輩は『君も』と言った。
つまり、嘘をついていたのは、僕だけではなかったようだ。
「さて問題だ。あれは本当に事故だったのか。それとも三人は、故意に死に追いやられたのか」
「三人?」
どうしてここで、二人ではなく、三人になるのか。
「君の母親と姉が、廃墟で死んだのは、不慮の転落事故でということになっているだろう」
「……違うんですか」
「私はね、あの場所にいた、別の真犯人こそが、三人を死に追いやったのだと思っている」
「真犯人が……三人を?」
さっきも三人と言っていた。先輩は何を知っているんだろうか。
「どういうことですか。詳しく教えて下さい」
「それはダメだ」
「はい?」
「今、教えてしまったら、君は退部してしまうじゃないか」
「え、いや、それは」
「私が学校を去る日に、真実を教えてやるよ」
まさかそれって、卒業式までお預けということだろうか。鼻先におやつを乗せられて、待てと言われている犬のようではないか。
「卑怯ですよ」
「それまでに君自身が、真実にたどり着いた場合は、ご褒美をやろう。とっておきの廃墟に連れて行ってやる」
「とっておきの廃墟って……どこですか」
「本当の父と行くはずだった、美しい廃墟だよ」
「……本当の父?」
先輩は花瓶のそばに置かれていた、古いカメラを険しい表情で見つめていた。カメラのレンズには、少しヒビが入っていた。
僕の家にあった古い一眼レフカメラと、同じ型番だった。