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【光の降る廃墟7(神咲直夜)】

「正確には書いていた、ですね」


 最近はもう廃墟には行っていない。


 何かが変わってしまった。前と同じような写真が撮れなくなっていた。スランプというやつだろうか。プロでもないのだから、別にしばらく休んだところで、誰に咎められるわけでもない。そう思っていたのに。


 廃墟の写真は、自分が一番、好きなモノであり、それだけに一番、悲しい記憶とも繋がっている。やめたいのに、やめられない。どんどん苦しくなっていくばかりだった。


 それどころか、あんな事件の容疑者と疑われてしまったら、もう二度と廃墟の写真を撮ることすら難しいだろう。むしろホッとしている自分がいる。逃げているだけだろうか。


「玄関に、青い傘がありました。あのマヤカンの写真に写っていたのと同じ、天使の羽の模様がついたやつです。あれ、うちの母が若い頃に使っていたものと同じではないですか。学生時代にあの傘をさしている母の写真を、いくつか見たことがあります」


「でしょうね。昔、君のお母さんから、借りたものだから」

「やっぱり、そうだったんですね」


 返そうと思っているうちに、そのまま転校することになってしまって、ずっと持っていたものだった。


 どうしても捨てることはできなかった。いつでも返すことができたはずなのに。返してしまったら、すべてが終わる。


 いつかまた返す必要があるという、そんな些細な理由ですら、ずっと大切に手元に置いておきたかった。ぼくは女々しい男なのかもしれない。


「ある日、ブログの写真を見て、その傘のことに気づいたのが、最初のきっかけでした。やけに母の写真と雰囲気が似ているのが気になって、あのブログを見始めたんです。私の好きな写真ばかりで、すぐにファンになりました」


 アリスの声は、いつもより震えているように思えた。


「でもその人の撮った写真は、どれも悲しそうでした。まるで世界にたった一人で残されたロボットが撮影したみたいで。人間がいたころを、とても懐かしんでいるような感覚が伝わってくる、寂しいのに素敵な写真でした」


 彼女は勘違いしている。ロボットなんかじゃない。ただの汚れた人間が、絶望した瞬間に撮影しただけの写真だ。そんなに綺麗なものではない。


「どうしてこんな写真が、撮れるんだろうと不思議でした。この写真を撮った人と会いたいと思いました。この悲しい写真を撮っている人に、『この世界はそんなに悲しくないよ』と言ってあげたいと、ずっと思っていたんです」


 アリスの言葉は、あの日、先生がぼくのために、口にした言葉と同じものだった。


 どこまでも、ぼくは運命の神様に、弄ばれているようだ。

 すべての写真を封筒に片付けて、アリスに渡そうとした瞬間、小さな衝撃があった。


「先生が美術室で、あの写真を見せてくれた時、この人だって確信しました。だから私、先生のことが……」


 封筒が落ちて、バラバラと足元に写真が散らばった。あの摩耶観光ホテルのサンルームの写真が、全てを見透かしているかのように、ぼくの視線の先に落ちてくる。


「好きです。誰よりもずっと」


 抱きしめられたことを理解した時には、彼女の吐息が、すぐそばにあった。

 お互いの心臓の音が聞こえるほど、ドキドキしているのがわかる。


「……ありがとう」


 衝動的に彼女の腰に触れそうになった。それ以上はダメだ。必死に、ぼくは自分を制御する。


「でも、ぼくは先生で、君は生徒です。それ以上の関係にはなれませんよ」


 強くぎゅっと、ぼくを抱きしめるアリスの手が、シャツの上からでも、やけに熱を持っているように感じられた。


「だったらどうして、家にあげたりしたんですか。それにさっきだって……」

「魔が差しただけです。君のことを心配する彼が微笑ましくて、少しだけ意地悪をしてしまいました」


 ぼくを見上げるアリスの、泣きそうな表情を見て、苦笑するしかなかった。

 こうなることは、わかっていたのに。ぼくは卑怯な大人だ。


「今日はもう帰りなさい。このままでは、きっと君を壊してしまう。今なら引き返せます」


 アリスは首を横に振る。胸に顔を埋めるように、さらに強く抱きしめてくる。


「このまま学校もやめちゃうんですか」

「さぁどうでしょう。学校側としてはやめてほしいと思っているでしょうね。父兄がいろいろと、うるさいらしいので」


 何か言いかけてやめたアリスは、唇をキュッと噛んでから決心したのか、言葉を口に出す。


「もし先生が学校をやめたら……恋人になれる可能性はありますか」


 少しだけ驚いてから、小さく笑った。


「君はそんなに、ぼくを路頭に迷わせたいんですか」


 何度もアリスは、首を横に振る。これではただの駄々っ子だ。

 すがるように、ぼくのことを見上げて言う。


「私のこと……嫌いですか」

「嫌いな人間を、わざわざ家にいれませんよ」

「でも、私じゃだめだってことですよね。もしかして先生は、私の母のことを……」


 またアリスの携帯の着信バイブが鳴る。しつこく何度も鳴り続けている。


「出なくていいんですか」

「私は今、先生に質問してるんです。私に諦めろとおっしゃるんでしたら、本当のことを教えてください」


「知らなくていいことだって、世の中にはいっぱいありますよ」

「知らないと後悔することも、いっぱいあると思います」


「若いですね。君にはありますか? 死ぬほど後悔したことが」


 アリスの瞳に、困惑の色が浮かんだ。


「どうして先生はいつも……そんなに寂しそうなんですか。先生の住んでいる世界は、そんなに悲しいものしかないのですか。私が先生にできることは、何もないのですか」


 親が赤子を見守るような、慈悲深い視線が、あまりにまっすぐすぎて、目をそらさずにはいられなかった。


「君は似ているね、お母さんと。弱っている人が目の前にいれば、助けずにはいられない。優しすぎるんだよ」


 先生も、あの日、あの場所で、「死にたい」と口にした、ぼくに向かって、優しく言葉を重ねて、なんとかぼくを救おうとしていた。


『君が思っているほど、この世界はそんなに悲しくないんだよ。綺麗な世界を自分で作っていけばいいんだから。君なら、きっとできるよ』


 見た目だけじゃない。声も、言葉も、まるで生き写しだ。


「君といると、当時の未来さんのことを思い出します。だから……ときどき学生時代の、青臭い自分が蘇ってきて、わけもなく苦しくなります」

「……恋人だったんですか」


 否定をするように、首を横に振った。


「ぼくは好きだった。でも未来さんには、夫も子供もいましたから」

「母には伝えたんですか」


「告白はしましたよ。もちろん拒絶されましたけどね」

「そう……だったんですか」


「あの日、ぼくは自殺をすると嘘をついて、彼女をお気に入りの廃墟に連れていきました。ぼくはあそこですべてを手に入れて、すべてを失ったんです」


 床に落ちた、摩耶観光ホテルのサンルームの写真を拾い上げた。


「じゃあ、お母さんが自殺未遂をしたのって」

「彼女の心を殺したのは、ぼくでしょうね」


 あの日、サンルームの大きな窓から、光が差し込んでいた。


「お気に入りの廃墟で告白をしたかったんです。いかにも高校生のガキが考えそうなことでしょう。でも未来さんに拒絶されたぼくは、ヤケになって、無理やり自分のものにしようとした」


 彼女の目からこぼれ落ちた涙は、未だに忘れられない。


「すべてが終わったときに、彼女はもう何も言わなかった。だから勘違いしていた。ぼくのものになったと。でも本当はあの時すでに、彼女の心は壊れていたんだと思います」


 あの日、すべてを壊した後に、ぼくが撮影した写真を見て、アリスは素敵な写真だと言った。


「様子のおかしかった彼女を。夫が問い詰めたそうです。それが最後のトリガーとなって、彼女はもう一度、あの場所に向かって、飛び降りました。ぼくや自分を問い詰めた夫への、当てつけのように」


 あの写真は一番大事なものを、自分の手で壊してしまった愚かな人間が、世界に絶望した状態で撮影したものだ。あの写真を美しいと思うのなら、きっと見ている人の心もゆがんでいる。


「かろうじて彼女の命は助かったけれど、怪我が回復して、いくら前と同じように振舞っていても、わかるんです。彼女は変わってしまった」


 こんなぼくに惹かれてしまうアリスもまた、どこか壊れている人間なのかもしれない。


「君のお母さんを壊したのは、ぼくです。ぼくがあんなことをしなければ、彼女が死を選ぼうとすることもなかったと思います」


 床に散らばった写真を拾いなおして、封筒に入れると、アリスに手渡した。


「だから君と恋に落ちることは許されなかった。でも君を、ほかの男には渡したくないと思ってしまったのも事実です。おかげで少しだけ、さっきは魔がさしそうになりました。愚かで傲慢な人間なんですよ、ぼくは」


 アリスの瞳から、涙が溢れて、雫になった水滴が、何度も頬を滑り落ちる。


「先生はバカです。信じられないほどバカです」

「そんなに何度も言わなくても。自分が一番よくわかってますよ」

「でもきっと、私はもっとバカだと思います」


 泣いているのか、笑っているのか、ない交ぜになったような、マーブル模様の表情だけを残して、アリスは部屋を出て行った。




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