13 ループ1 幕が閉じる時
レティシアは、オデットの機嫌を取ることに腐心した。しかし、一度失った信頼というのは回復するのが難しい。
どこで間違えたのだろう。どんなに微笑んでも彼女は前ほど親しげには付き合ってくれない。
(どうしたらいいの? せっかく夜会も我慢して、退屈な刺繍に付き合ったのに)
しかし、その後、状況は悪化していく。
レティシアが、読み書きがおぼつかないとブラウン子爵夫妻にバレてしまったのだ。これは貴族の令嬢として致命的だ。
いったいどこからバレたのだろう。トレバーは知っているが、彼がレティシアに不利になることを言うはずない。
あの夢で、結婚したのは十八歳だった。レティシアは今十九歳、もうすぐ二十歳になる。
徐々に強烈な前回の記憶は薄れていくが、このままでは結婚できなくなるかもしれない。下手をすれば破談だ。
(トレバーを放したくはない。私は幸せになるのだと決めたのだから)
前回とは違い、トレバーはレティシアを愛してくれている。だから、彼と結婚することは彼女のなかで決定事項だった。
朝食の後、二階にある義父の執務室に呼ばれる。婚約が破棄されてしまうのだろうか。夢ではこんな展開はなかった。どうしよう。
「レティシア、お前がしっかり勉強をしなければ、この婚約は白紙に戻さなければならなくなるぞ」
執務室で渋い顔をしたオスカーに伝えられた。
「そんな、お義父様、私頑張ります」
政略とはいえ、トレバーとは上手く行っているのに悲しくなる。幸せになりたい。
「期限は三ケ月だ」
いつもは甘い義父に期限をきられた。
「たったの三ケ月ですか………」
正直自信がない。レティシアは勉強が苦手で大嫌いだったが、否はない。
今はレティシアを愛してくれるトレバーと結婚したかった。どうしても幸せになりたい。
それにこの間、義母にアーネストと茶を飲んだと大目玉をくらったばかりだ。ニーナから聞いたらしい。
お茶を飲むくらいいいではないか。将来義兄妹になるのだから。
義父に厳しいことを言われ、肩を落として執務室を出ると、そこにはこの家の天敵リーンハルトが佇んでいた。
彼の冷たいアイスブルーの眼差しにレティシアはたじろぐ。そういえばリーンハルトが家にいるのは久しぶりだ。こんな時に限って……。
「レティシア、いったいどういうつもりだ?」
「はい?」
この義弟はレティシアを姉とは呼ばない。彼にとって姉はミザリーただ一人だ。
「お前が、あちらこちらの男に粉をかけるから、俺の友人の家は婚約者と揉めたんだぞ?」
「え? なにそれ? 私、そんなことしていない」
言いがかりだ。レティシアは唇を尖らせる。
「覚えていないのか? お前が散々こびて、振りまわしたハリー・トンプソンだよ。家までお前を訪ねてきたじゃないか!」
そういえば、そんなことがあった。しかし、それはハリーが勝手に勘違いしただけ。執事に追っ払ってもらった。
何も後ろ暗い所などない。というか使用人達はレティシアの身に起こったことをこの義弟に伝えているのか?
十八歳になった彼は「坊ちゃま」ではなく、いまでは「若様」と呼ばれている。
「媚びたなんて失礼ね。私はただ愛想よくしただけ。本気にする方がどうかしているのよ」
社交の場に出れば食事や茶の誘いなどよくあることだ。レティシアはそれに微笑んで曖昧に頷いていただけ。その方が彼らの受けがいいからだ。だが、ときどきそれを本気にするやからがいて本当に困る。
「何をいっているんだ。お前、自分のやっていることがわかっているのか? 婚約者がいるんだぞ。きっぱり断るべきだろう。
それに婚約者ではない男と何度も続けて踊るな。相手は勘違いする。だいたいお前が愛想良くするのは男ばかりで、同性には見向きもしないじゃないか」
痛いところを突かれて唇を噛む。リーンハルトは意地悪だ。
「それは……私、彼女たちに意地悪されるから。あの子たち、すごく意地が悪いんだから! 私が殿方に人気があるからって妬んでばかり!」
悔しくて叫んだ。
「馬鹿かお前は!」
売り言葉に買い言葉で義弟と喧嘩になってしまった。いつもは彼の方がレティシアを無視をして馬鹿にして終わるのに、今日は異様に絡んでくる。
「リーン、もう、その辺にしておいたら、レティシアはいま、お父様に叱られたばかりなのだし。それに偉い方や、殿方には好かれているのだから、いいんじゃないかしら」
ミザリーの声が割って入った。
「姉上、そのフォローはどうかと思う」
リーンハルトが冷たく言い放ち、レティシアを睨みつけると踵を返して行ってしまった。
「ありがとう、お義姉様」
レティシアはミザリーに駆け寄った。正直彼女が来てくれて助かった。本当にリーンハルトは苦手だ。
こちらが笑いかけても彼はニコリとすらしないし、たいてい無視される。一つ年下の義弟は最近背も伸びて、体も大きくなってきて怖い。子供の頃は天使のように可愛らしかったのに。
それに比べて、ミザリーは思いやりがあり上品な人だ。
そこでふと違和感に気付く、昔見た悪夢がまた生々しく頭の中で再生される。そうだ。ミザリーはもうとっくにアーネストと結婚していたはず。それがまだ未婚で家にいる。
(どうして?)
突然鮮やかによみがえった記憶にレティシアの頭は混乱する。
「大丈夫? レティシア」
ミザリーが心配してレティシアの俯いた顔を覗き込む。その後ろにニーナが控えていて……。
牢獄での記憶がよみがえる。それを慌てて振り払う。
レティシアは弱々しい笑みを浮かべ、ミザリーの言葉にコクリと頷く。
「ねえ、お庭で一緒にお茶を飲まない? バラが見ごろだわ」
義姉の魅力的な提案にレティシアの心が揺れる。
「え? でも、私お勉強をしなくてはならないから。そうしないとトレバーと結婚できなくなっちゃう」
「そんな辛そうな顔をして……。気分転換しましょう」
ミザリーがにっこりと笑う。それもそうだと思った。部屋に帰って勉強しようとしても、きっとリーンハルトの腹立たしい生意気な顔が浮かぶだけだ。気分転換は大事。レティシアは馬鹿な悪夢が消えるように頭を振った。
彼女に誘われるまま廊下を進み、エントランスに続く、大きな中央階段に差し掛かる。階段に踏み出そうとした瞬間、突然、背中に強い衝撃を受けた。レティシアの体が、宙を舞い、落下する。
ガン、と体を階段に打ち付けた。そのまま勢いをつけて体は階段から転がり落ちていく。痛い。ひどく頭を打ち、割れるように痛む。いつまでも落下が続く思われたところ、止まった。意識が朦朧としてくる。
その時体を強く揺すられた。頭がガンガンと痛む。やめて欲しいのに声が出ないどころか、指一本動かない。
「レティシア、大丈夫?」
ミザリーがレティシアの顔を覗き込む。その瞳には好奇の色が宿っていた。晴れ晴れとした顔で、にいと笑い口角をいやらしく上げる。
「分不相応な夢を見るんじゃないわよ。この薄汚い貧民が」
耳元で、そう言って耳障りな声をたて彼女は笑う。胸が痛く苦しい。ごぼりと、血を吐く。
レティシアの意識は遠のき、闇に飲み込まれた。




