蝉の瞳
午前に降っていた雨は、水溜まりをアスファルトの上に残して去って行った。湿気た空気を吸い込み、溜め息に変換する。紫色を微かに残した夜空に星はなく、遥か西へ向かってカラスが飛び去って行く。
自転車を押して帰路を歩く俺は、どうにも疲れていた。それには特段理由はなく、ただ漠然と過ぎ去る日々に溺れているだけだった。いや、そうだ。溺れているのだから疲れるはずだ。辛うじて水面に顔を上げ息継ぎをこなしている、それこそが現実の在り方だった。
ふと見上げると、一本の街灯が明滅していた。自治体の管理がなっていないのか、それとも単に誰も気にしていないのか。しかし悩むことはなかった。これから気にせずにその下を通り抜けようとしている俺がいるのだから、後者に決まっている。世界というものは単純なのだ。
近づくにつれ、何かが見えてきた。果たしてそれは、不規則に鼓動する蛍光灯の周りを飛び交う蛾の群れだった。整備された街灯などほかにいくらでもあるだろうに、今にも消えそうな不安定な光を求めて必死に羽ばたいている。俺の目にはそれが、先程見たカラスよりも幾分か醜く映った。
よく見ると、一匹の蛾が蛍光灯に止まっている。俺の視線はその一匹の蛾に吸い込まれ、釣られて立ち止まった。羽音が耳に届きどうなほどの静寂の中、僅かな空気の振動が鼓膜を打つ。
そいつは、明滅する光に動じることなく静止していた。やけに歪で異様に思えた。それこそ、黒く磨かれた無機質な双眸が、蛍光灯の光を反射し共鳴したように明滅を繰り返している謎のイメージが浮かんでくるくらいには。不意に痛みが生じた。頭痛だった。きっとろくでもない謎のイメージのせいだ。しかし生じたのは頭痛だけでなく、それに引き摺られるように一つの記憶がフラッシュバックした。今となっては懐かしい、夏の日の出来事だった。
空調の行き届いた教室、熱気が窓越しに伝わる席から教室内を俯瞰する。生徒たちが黒板に向かい、同じようにペンを動かし板書をしている。石膏を擦り付けた黒板、ペンを走らせる不協和音、蝉の斉唱。それこそがあの夏の現実だった。
喧しいことこの上ない蝉だが、一生の大半は地中で過ごし、地上という晴れ舞台にはほんの一時しか居ることができない。それはまさに俺たちの人生の縮図のようだった。
何の気なしに、今鳴いている蝉の種類と、蝉と俺たちの人生におけるコリレーションについて、隣の席に座る友人に話し掛ける。すると望む返事がひとつ、食い違う意見がひとつ返って来た。
「クマゼミだな。……それから、俺たちは蝉じゃないんだ。どうにだってなるさ」
なるほどクマゼミか。ならば校門の前に幾つも転がっているあの亡骸も、おそらくそれだろう。
しかし、彼の瞳を覗くと、黒板のある前を向いて揺れることなくそこにある。
俺は目を見張った。あれは、あの瞳は、さながら蝉のそれだったのだ。漆黒で硬質で、教室の天井に光る蛍光灯を正確無比に映し返しているのだ。だからと言って彼の背に羽が生えているなんてことはなく、ただその瞳だけがそっくりそのまま蝉のそれへと置き換わっていたのだ。
戦慄した。彼は、いや、この教室で現実の一部として組み込まれている生徒たち全員は、最早蝉でしかなかったのだ。コリレーションなどではない、蝉こそが人間だった。つまらない人生を送るために生まれた人間という生物は、一時の幸福のためだけに存在し、あっけなく死に逝くものだったのだ。俺は悟った、このままではいけないと。蝉の群れからなんとかして抜け出さなければならないと。
それからというもの、俺は独りを好むようになった。あの夏に戻りたくない一心で、来る日も来る日も独りの道へ進んだ。周りの友人からは、つまらなくなっただとか変わってしまっただとか、散々に言われた挙句距離も取られ、友人関係も希薄になった。隣の席だった彼もその例に漏れずにあった。彼と最後に会った学校の階段、俺に向けられた無機質なあの瞳が、未だ頭の片隅に巣喰っている。
――どれほどの時間立ち止まっていたのだろう。気が付くと、空に僅かに残っていた紫色の影は無くなっていた。湿気た空気は相も変わらず、ただ少しだけ冷気を含み始めていた。嫌な心地だ。
しかし、なぜ俺はここで立ち止まり、その上あの夏の記憶を思い出したのだろう。大して嬉しい記憶ではなく、むしろあまり思い出したくない類のものだ。
(そうだ、蛾だ。あの一匹の蛾を見つけた時だ)
思い至り、視線を上げる。そこには回想に耽る前と同じく、明滅する蛍光灯に群がる蛾の中で、その一匹だけが微動だにせず止まっている。その一匹を見上げながら、何かが胸の奥でつっかえているような気分に陥った。明滅する光の所為だろうか、分からない。
その時だった。俺は確かに見たのだ。
――群がる蛾の、それぞれの瞳に反射して映る、蝉の瞳を。
あぁ、そうか。反射し映っている、あの夏の彼と同じ無機質なあの瞳は、俺のものだ。恐怖など微塵も感じず、代わりに確かな納得だけが思考を駆けた。その結論に満足している自分自身がいるかのようだった。
ふと、右手に違和感を感じた。見てみると、なんとそこには、蝉特有の節足に変わり果てた右手があったのだ。最早人間の右手とは程遠いそれは、段々と体を侵食していく。右腕、左手、左腕、肩、胴体、――そして足首が侵食されると、バランスを保てずに俺の体は地面に倒れた。少しずつ這い上がるように進行する浸食を目の当たりにしながら、あぁ、俺は蝉になるのか、と実感した。
暫くして、俺は蝉となった。あれほどまでに蝉とは似ても似つかない体が、今はそっくりそのまま蝉になっている。羽も生え、足の数も揃い、もう誰も俺がこの蝉だと分かる者はいないだろうと思った。
足音がする。ゆったりとした歩調で誰かが近づいてくるようだ。俺はその方向を見る。するとそこには、俺がいた。この蝉の姿に変わり果てる前の、人間の俺が。地面にいる俺のことなど気にする様子もなく、道端に倒れている自転車を起こし、人間の俺はそのまま歩き去ってしまった。
――蛾が一匹、地面に落ちて息絶えた。