旅館
「ではここからはマイクロバスで移動していただきます。ゆっくりでいいんで用意ができた人からお乗りください」
それからまもなくして職員たちの誘導が始まった。
避難者は速やかに持って来た荷物をまとめ、次々にバスに乗り込んだ。
「定員がギリギリなのでできるだけ詰めてお乗りください。ご協力お願いします」
体育館に避難していたほとんどの人がすでに出ていってしまったので、定員が三十名前後のマイクロバスにも大きな荷物を持って乗り込めた。
最後に職員数名が乗り込んだところで、バスが出発した。
窓の外を見るとまだ何名かの職員らしき人物が残っている。
避難者の一人が窓から呼びかけるも自分たちはそれぞれの車で行くんでと丁重に断った。
「職員たちも大変だね」
「ああ、いくら住民を第一に考えてるとしても自分たちも危ないはずなのに」
「なんていうかわからないけどすごいよね」
「うん。自分より他の人を優先させるのは普段だったら簡単だけど、こういう時でもちゃんと冷静になって考えられるなんて。俺もこういう人間になりたいなってつくづく思う」
湊は芽衣が自分の方を見ているのに気づいたが、湊は芽衣に視線を合わせることができなかった。
しばらくして、一番前の席に座っていた職員が立ち上がった。
「ええ皆さん。ここから御殿場市に向かいます。通常であれば三時間ほどで着く道のりですが、道路などが封鎖されていたりする可能性もあるのでそれ以上の時間がかかると思われます。なのでどうぞ皆さん狭い場所ですが、お寛ぎいただいて結構です」
職員がそう言って座ると、再び静寂がバスを包み込んだが、緊張が緩んだが、徐々に隣同士で話し込む声が聞こえるようになった。
湊と芽衣もまたしばらく目配せを交わさなかったが、人の声が聞こえると静かに互いの手を握った。
「皆さん到着いたしました。こちらが皆さんの新しい避難施設になります」
薄汚れた腕時計を見ると、午後六時を過ぎていた。
湊たちを含んだ二十人余りがバスからゆっくりと出ると、目の前には灯のついた和風の建物が建っていた。
「ちょっと寒いね」
芽衣が湊の腕に絡みついた。
「夜だからかな。それと火山の噴火が空を覆ってるんじゃないかな」
湊は上空を見上げた。
光ひとつ見えない漆黒の空模様だった。
「旅館ですか?」
「住民の一人が口を開いた。
「はい。温泉旅館です」
「温泉入れるんですか?」
「もちろんです。少しでも避難しているという実感を遠ざけようと私どもでご用意させていただきました。温泉はもちろん食事も朝昼晩と提供させていただきます」
その言葉を聞いて歓喜の声を口々に発した。
「皆様、長旅お疲れ様です」
旅館から着物姿の女性が出て来た。
「等旅館、御福亭の女将をしております、坂本です。本日は遠くからようこそおいでくださいました。ささ、ここは寒いですので中へどうぞ。受付で一家族ごとにお部屋の鍵をお渡し致しまして、その後午後七時半から夕食をご用意しております」
住民たちの顔に笑顔が戻り、続々と旅館の暖簾をくぐった。
湊たちも自分たちで違う避難場所を探さなくてよかったと笑った。
「こちらにご家族ごとにお並びください」
湊は芽衣の方をちらっと見た。
芽衣は湊の方を向いて笑った。
「一人一部屋はやだよ」
「はぁ…家族じゃないのに」
ついに順番が来た。
「お二人様ですね。五◯四号室になります。こちらにお名前をご記入ください」
湊はもう一度芽衣の方を見た。
芽衣は静かに頷いた。
「なんで誰も指摘しないんだ」
「きっと私たちを兄妹だと思ってるんだよ」
受付で記入を済ませ、部屋に向かっている湊が文句を言った。
「兄妹だったとしても俺たちの年頃の兄妹を一緒の部屋にするか」
「こんな時だから、一人ずつじゃかわいそうだと思ったんじゃない。旅館の人の気遣いだよそれにほら…」
避難者だからか旅館から、いや政府からというべきだろうかたくさんの日用品が支給された。
「その割には随分ニコニコだな」
「うん! だってまた湊と一緒に寝れるんだもん」
五◯四号室の居間にはすでに布団が敷かれていた。
「もっと離しとけって」
「いいじゃん別に」
湊が布団の一つを離そうとすると、芽衣が止めた。
「それとも一緒の布団でくっついて寝る?」
「結構です」
湊は仕方なく、布団を元の位置に戻した。
「ウフ、じゃあお風呂入りに行こうか」
「あ、ああ」
湊は曖昧に答えた。
「ん? 一緒に入りたかった?」
「べ、別に」
芽衣は隅に追いやられた机の上においてあった旅館の案内が記してあるパンフレットを見た。
「ううん、混浴はないみたいだけど。ここのお風呂に一緒に入っちゃう?」
「嫌だ」
「素直になろうよ。まだ恥ずかしがってんの?」
「べ、別に」
湊は耐えられなくなってそっぽを向いた。
「ま、いいやこれからいつでも一緒に入れるしね。さ、準備しよ。ご飯は七時半からだって言ってたから後一時間ぐらいしかないし」
芽衣はいつになく上機嫌で温泉に入る準備を始めた。